2006年03月18日

英語ができる!と言えない日本人

まずは、少し前に聞いて気になっていた、ある人の言葉を紹介したいと思います。

みんなは運動ならちょっとできると「できる」って言うのに、どうして英語だと「できる」って言わないんだろ。

このセリフ、ご存知の方、いらっしゃいますか?
これは、ドラマ「ドラゴン桜」で、英語担当の川口洋先生(演じるのは金田明夫)が生徒に言った言葉です。
すみません・・・実は、昨日の竹岡先生の話からの流れの記事なんですね。

受験生に有名な英語講師、竹岡先生の話を昨日書いたのですが、竹岡先生はドラゴン桜の英語の先生のモデルだそうです。
だからと言って、このセリフそのものが竹岡先生のものかどうかはわからないのですが・・・(ご存知の方は教えて下さい)。
このセリフがすごく印象深かったので、ちょっと考えてみたいと思います。

この川口先生は、外国人だったら挨拶や少しの単語だけしか日本語を知らなくても、「どうだ、すごいだろ?」みたいなことを平気で言うのに、日本人は何故か外国語に関してだけは完全主義者になってしまう、とおっしゃってました。

うーん、そうかもしれない。
実際、私も人に「英語を話せますか?」と聞かれたら、「えぇ、多分。」「まぁ、何とか。」とか言っちゃいそうな気がします。
事実、ネイティブの人としゃべる機会もないので、本当に向こうがペラペラしゃべりかけてきた時に、普通に会話が出来るかどうかは大いに疑問です(謙遜ではなく)。
私の自信の唯一の拠り所(笑)は、TOEICの点数だけですし、あの試験はリスニングとリーディングしかないから、スピーキングとライティングの能力を示してくれませんしね。
英語が話せる?と聞かれて、モゴモゴ言うのもイヤだし、かと言って「ペラペラです。」という自信もないから、TOEICという、物差しになる試験を受けて、「まぁ、TOEICは930点ですけど・・・」と逃げるために、この資格はあるのだ、と言っても過言ではない!(笑)。
そもそも「英語がペラペラ」ってどういう状態を言うんでしょうね。
外国でショッピングできたり、レストランで注文できたりすることが「ペラペラ」だとは思えないけどなぁ・・・。
(この「ペラペラ」に関する話は、また別の機会にでも。だけど自分は「ペラペラ」じゃないから、書きにくいネタでもある・・・笑)

と、そんな風に日本人は英語が完璧にしゃべれないことを卑下しているところがあるのに、外国から有名な歌手や俳優が来て、「ニッポンノミナサーン、コンニチワー。アイシテマース!」とか言われると、何故か「わぁ、すごい、日本語しゃべってるよー!」とか驚いたりして。

そもそもアメリカ人は(とアメリカ人に限定してすみません)、外国語習得で苦労した経験が少ない、と聞いたことがあります。
(これ以下のアメリカ人の話は、昔どこかで読んだ気がするんですが、どこで読んだかさっぱり思い出せない。勝手に引用してごめんなさい。)
アメリカは広いですから、国内旅行だけでもかなりの距離、自分の州から出たことない人も結構いるとかで、海外旅行経験者も割合としては少ないらしいです(ほんとかな?)
さらに、英語はだいたいどの国でも使えるので、英語さえしゃべっていれば、意思疎通に困ることはあまりないはず。
だから、母国語が通じない、という経験がないから、日本で英語が通じないのを知って、「どうして通じないんだろう?どうして日本人は英語がしゃべれないんだろう?」みたいに感じるとか。
言葉で苦労した経験がないから、わかりやすいようにゆっくりしゃべってあげようとか、平易な言葉を使ってあげようとか、そういう気配りもあまり出来ないそうです(それもほんとかな??)
だから別に傲慢なのではないようです(私は傲慢だと思ったことはないですが・・・)。

それに比べて、日本人は外国人が日本語を話せるという先入観はないですよね。
「日本語は習得が難しい言語だ」みたいな自負もあるし(本当に言語学的に難しい言語かどうかはともかく)、外人さんがカタコトで話しかけてきたら、できるだけゆっくり、わかりやすい言葉で話そうとするでしょう。
極端な例では、向こうが流暢な日本語でしゃべりかけているのに、英語で答えなきゃと思ってオロオロしたり・・・。

外国人は「通じるのは当たり前」と”思い込んで”手加減せずにペラペラ英語をしゃべりかけて来る。
それに対して、その手加減しない英語と同じレベルくらいにわかってないと話ができないと日本人が”思い込んで”いる。
そのお互いの「思い込み」が、日本人の英語コンプレックスの原因なのでしょう。
川口先生も、日本人のそういう思い込みについて指摘していました。
そして、「英語を職業としている英語教師ですら、英語できる?と聞かれてはっきり”できる”とは言えない人が多い」とも言ってましたね。
実際、ドラマの中で、長谷川京子演じる井野先生が「できる」とはっきり答えられなかった、というシーンもありましたし。

ですから、自分がいざ、英語を使う段になった時には、突然人が変わったように開き直って、「私は英語が話せる!」(少なくとも、外人さんのカタコト程度には話せるはず!)と自分を信じて、私がわからないのはあなたの喋り方がわかりにくいからだ、とでも言うように、相手の言葉を聞き返すくらいの度胸が必要なのではないでしょうか?
あ、ここで、強調しておきますが、これはあくまでも日本に来た外国人を想定しての話です。
こちらがアメリカに行く場合は、やはりもう少し謙虚にならないといけません。
が、何も言えずに黙り込んでいるよりは、カタコトの英語でも返していれば、だんだん相手もこちらのレベルに気付いて、合わせてくれるようになるはずです。
つまり、今日の記事で言いたかったことは、「話す時には強気で行こう、話す時だけは英語は簡単だと信じよう!」という心構えを述べたわけです(笑)。
実際に私が英語でオハナシする機会があれば、そういう心づもりで臨もうじゃないか!という決意ですね。

日本人が「英語ができる」と言えないのは、日本が謙遜の文化であって、自分から「できる」と宣言することに抵抗があるからでしょう。
さらには、スポーツや楽器なら「できる」と言える人は多いけど、これが勉強に関することになると、とたんに「私、数学できる!」とか「物理が超得意!」とか言えなくなる人が多いのも事実なんですよねぇ。
すごく傲慢で自慢気に聞こえちゃいそうな気がするからでしょうか。
実際、できるかできないかは、自分が判断することではなくて、まわりが決めることだという考えもあるでしょう。(自分ではできると思っていたことでも、上には上がいる、自分は井の中の蛙だった、と気付く経験も多いですし。)

でも、アメリカ人は、自分が出来ることははっきり「できる」と言いますよね。
それが就職の面接試験ならなおさらです。
履歴書にも、「自分は今までこんなことをやってきたので、この分野での実績はあります。まわりからも評価されていました・・・」と自分の能力のアピールが延々書いてあるそうです。
フレンズ1-18 ではウェイトレスの仕事を辞めたいレイチェルが、履歴書をいろんなところに送ろうとしていましたよね。
その履歴書を見て、
ロス: I'm sure they'll be impressed with your excellent compuper skills. (担当者はきっと、レイチェルの素晴らしい”コンピューパー”技能(スキル)に感銘を受けるだろうね。)
と言っていました。
これは、レイチェルが computer を compuper とタイプミスしたのですが、その程度のスキル(笑)でも、履歴書に excellent computer skills と書くつもりだった、ということでしょう。
レイチェルがパソコンが得意とは思えないのですが、履歴書にはそれくらい書かないと、なかなか採用には結びつかないわけです。
もちろん、嘘を書いたらどこかでバレるとは思いますが、まず面接に辿りつくまでに、それくらいのアピールが必要なのです。

日本人だったら、履歴書にドドーンと自分の資格を書いて、それで面接官に「その資格で本当に実務ができますか?」とか聞かれたらどうしよう・・・とか考えすぎちゃうのかもしれませんね。
(私も昔、”英検準一級”と書いて、えらい目に遭いました・・・笑)

でも、資格を持ってるなら、それをアピールするのは全然悪いことではないと思います。
もちろん、ペーパー試験の資格と実務は異なるけれど、試験に合格するために勉強したことは、何かの形で役に立つし、その試験の合格を目指して情熱を持って臨めたのは事実でしょう。
だから、自分が資格を持つ分野で実務上の問題が出てきた時に、他の人よりは対処できる自信があるぞ!、わからないことを勉強して問題を解決する自信があるぞ!と言えるだけでもいいんじゃないでしょうか。

TOEICの試験の点数で、英語の実力が測れるわけではない、というのは当然のことです。
もちろん、ある程度の相関関係があるのは間違いないでしょうし、自分の英語能力のバロメーターとして使うのに適した資格だとは思いますが。
私は、自分が930点に相応しい英語の能力を持っているとは思えませんが、ただ、「英語の試験で高得点を目指そう!と頑張れた人間」だということは言えます。
英語が好きだ!、英語のことなら情熱を持って臨める!とも、はっきり言えます。
大事なのは、そういう情熱や意欲、なのではないかと。
「英語が好きだ」というのは割合簡単、でも「英語ができる」というのは難しい。
だから、私は「英語に対する情熱は人一倍あります!」と言うことにしようかな?

実際は、英語ってとっても難しいです。
英語を学べば学ぶほど、英語の深さと奥行きに驚き、次々と新しい発見がありますよね。
ちょっと掴み所の無いタチの悪い男にハマっていく感じにも似てるような・・・(だから離れられないのか?・・・笑)。
その「英語は難しい」という話もまた、機会があれば是非書きたいと思います。
とりあえず今日は、ドラゴン桜がマイブームの今(何故、今!?)、ちょっとセリフを取り上げてみたくなったので・・・。
連日の超長文の四方山話、申し訳ありませんでした。さぁ、明日はどうなるか・・・(えっ!?)

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posted by Rach at 15:09| Comment(10) | 英語学習のコツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
Rachさん、

おはようございます。今日の話題は興味深いですねー。いつも面白いんだけどね(笑)特にね。

>つまり、今日の記事で言いたかったことは、「話す時には強気で行こう、話す時だけは英語は簡単だと信じよう!」という心構えを述べたわけです(笑)。

日本人は私も含めおおかた親切ですよ。道とか駅で困ってる外国人がいるとよっていって助けてあげる。私の場合さらに度をこしたおせっかいで駅でいかにも旅行者っぽいひとがうろうろしてると「大丈夫かな」と気になって仕方がない。(駅には英語の路線図はないし券売機もすごくわかりにくい)でときにはその人たちがちゃんとホームにたどりついたか、いかにも気にしてない風を装って見守ってる。ちゃんとついたらそれで終わり。だめそうだったらひとまず日本語で「どちらにいかれるんですか」と聞いて日本語がわかるか確認してわからなそうなときは英語で教えてあげる。ねっおせっかいでしょ(笑)。(半分以上のひとは日本語がわかりますね。かたことでもね)

でもこれには一応理由があって、自分が旅行者だったときそれはスイスだったけど地図をもって立ち止まったりうろうろしてると必ずひとが寄ってきて、「大丈夫?わかる?」という感じで道案内をしてくれたの。私はそれがすごくうれしくて自分でもできるだけそうしようと思ってるんです。

私の印象ですが、アメリカ人はおおむね他の国に感心が薄いと思います。自分で選択して日本語を学ぼう!と来てる人は少数派です。彼ら自身そういってました。仕事などで仕方なくきてるひとやその家族はさいしょ街で英語の標識や看板などがないので、すごく戸惑ったといってます。主人も外国で仕事をして帰ってきたとき、日本は「標識なども日本語だけ。5ヶ国語つけなくてもいいけど、せめて英語くらいはつけないとね。鎖国してるよ」といってましたね。

でも私の知り合ったアメリカ人のほとんどはかえる時日本にとてもいい印象を抱えてかえってますよ。必ずまた来る!といいますね。そしてそれは決してお世辞だけではないと思います。そういってもらうとすごく誇りに思うのです。

ながくなりました。ちょっと記事の内容とずれたかも。ごめんなさい。
Posted by agathe at 2006年03月19日 08:10
興味深いと言っていただけて嬉しいです。ありがとうございます!

おせっかい(?)の話はとてもagatheさんらしいと思います。会ったことないけど、そんな方だろうなぁ・・・と想像してた通りですね(笑)。

私は「誰か英語で尋ねてくれないかなぁー」とオーラを出しまくってるんですが(笑)、誰も聞いてくれません。今までの人生で英語で道案内らしきものをしたのは一度か二度くらいですね。それもあんまり英語に自信のなかった会社員時代の話ですし。
京都や奈良に行くと、外国人の旅行者がたくさんいるんですけど、バックパックしょって自分でガイドブック見ながら観光してるような人は、人に尋ねることもないんでしょうね。みんな堂々と歩いてらっしゃいます。もしかしたら、私よりも日本文化に詳しいかも知れません。世間話でもしたいなぁ・・・とか思いながらも、自分からは声をかけられなくて、残念に思うばかりです。

アメリカ人って、日本と中国と韓国の違いがわからない、って人も多いかも。(日本人もそれは同じで、ニュージーランドの人が、オーストラリアの話ばかりされて困った、という話を聞いたことがありますし。)
交通機関は、同じ日本でも地域によって違うので戸惑うくらいだから、外国の方にとっては、さぞ難しいでしょうね。(東京に行った時に、地下鉄が縦横無尽に走っているので、目的地に行くにはどこを通っていったら良いのかわからずにオロオロしていたのは私です。大阪よりもかなり路線図が複雑でした。さすが首都!)

外国人にとっては、日本人は親切でしょうね。治安も良いですし、落し物が見つかったと言って驚く方も多いとか。そういう自慢できる部分はなくしたくないし、誇りに思いたいですよね。

最後に・・・私も主人も外国の方と接する機会がないし、海外旅行も新婚旅行以来(!)全然行ってません。ですから何を語っても想像の域を出ないのですが、agatheさんのように実体験を交えて、私の記事に対して「そうだ」とか「そうじゃない」と言っていただけるのは、とっても貴重なんですよ。これからも、そういうお話、いろいろ教えて下さいね! 期待して待ってまーす!
Posted by Rach at 2006年03月20日 14:47
日本人は外国語としての英語をこれほどまでに(半強制的に)学習している国民はほかにいない、という自負があるからではないでしょうか? 運動だと、やはりもって生まれた身体能力の差がありますけど、特別恵まれた環境の人を除く多くの日本人英語学習者にとっては、ほとんどすべて「努力の差」になるわけですから。
アメリカ人が日本語を話せなくても、間違えてもあたりまえの部分ってあるでしょう。 それほどまでに特別な言語を学んでいるわけですから。 中学も高校でも義務的に日本語を学んでいる国民っていないわけですし。
あと、アメリカというのはある種EUのようなところがあると思います。 西・東・南や地方地方によってEU諸国くらいの州民差があるとおもいますし。 スペイン人とイタリア人が母国語で話しても通じるけど、メイン州の人間とルイジアナ州の人間がお互いの訛で話したら通じない、っていうジョークを聞いたことがあります。
大都会のロスやNYの人たちで考えると、彼らの外国人への無関心さ、というのは、つまり「彼ら自身やその友人・知人達の大半が実は外国人である(だった)」からではないでしょうか? 3代4代さかのぼれば、アメリカ人の多くは外国人になってしまうわけですし。
そのあたりの感覚は日本人にはちょっとつかみ難い部分でしょう。
Posted by FDJ at 2006年03月20日 22:30
初めに・・・最近の私の記事は、脱線話が多いし、フレンズ解説は遅々として進まないし・・・ということで、FDJさんがすっかりあきれてしまって、「もう、読んで下さってないのでは・・・」と心配しておりました。ですから、こうやってコメントいただけてホッとしていますし、とっても嬉しいです!(良かった、良かった・・・)

”真面目で勤勉な”日本人が、中学・高校と6年間もこつこつと勉強しているはずの英語が使えない、というのがコンプレックスの原因だ、というのは確かにそうですね。その視点が欠けていました。
6年間学んでいるのに身に付かない→日本の英語教育は間違いだ、という論調に流れるのもそこですよね。
私はあの教育を”全面的に”否定するつもりはないんです。というか、英語能力を測るテスト(受験)がああだから、あんな風に学ばざるを得ない、というか・・・。(これを話すと長くなりそうですね・・・笑)

日本人はああやって文章を訳すのに慣れているからリーディングが得意だと思い込んでいるけど、実はリーディングのレベルもそんなに高くない、というのが現実なんですよね。
伊藤サムさんは、そのことについて、日本人の(これまでの)学習法は「英語”そのもの”を勉強しているのではなく、英語に”ついて”勉強しているのだ」とおっしゃっています。「英語含有率が低い」とも表現されています。(←サムさんの著書 英語は「やさしく、たくさん」 からの引用)

とにかく、「英語そのものに触れてない」ってところが原因で、特に私の世代はリスニングなんてものは全く勉強してなかったので、それに対する恐怖感というのは相当なものでした。今となっては、「そりゃ実際に聞いてみたことないのに、わかるわけないじゃん。」って感じなんですが。
英語を読まないからわからない、聞かないからわからない、ということなんだと今になって思います。もちろん、「かなりの量を」ですけどね。
ラジカセもない明治時代の人は一体どうやって英語を身につけたのか・・・それを考えると、今の日本人は恵まれてるはずなのに。

州の人が訛りで話すと通じないという話(単なるジョーク、それとも結構本当の話?)は面白いですね。イギリス人がアメリカの南部訛りがわからないとか、その逆などは当たり前のように聞くんですが。(中国の北京語と広東語ほどの違いはないんでしょうけどね・・・って、中国語は全然知りませんけど・・・笑)

ジョーイは「イタリア系」だと常に意識していますし、名前から「アイルランド系だな」とかいう話もよく聞きます。ギリシャ人と結婚するときは家族のいろんな問題が出てきて大変・・・という映画もありましたねぇ。
自分で上のコメントに、「アメリカ人は、日本と中国と韓国の違いがわからない」と書いたんですが、時々映画やドラマを見ていて、そう感じることがあるのは事実です(時々、ですが)。
でも、アメリカで暮らす移民の人たちは、自分のオリジンやコミュニティーを大事にしていて、アメリカ人はそういう文化や慣習を目にすることが多いから、実は日本人よりも、そういう外国の文化については詳しいのかもしれませんね。
本当に無関心なのは日本人の方かも。「外国の人だ!」と言って、自分から距離を置いてしまう人が多いのかもしれません。
Posted by Rach at 2006年03月21日 15:59
6年間勉強して英語が話せないのがそんなにまずい事でしょうか?
それだと、競馬の三連単5頭BOXの"組合せの数"が言えないのも、鶴亀算ができないのも、ドイツとスペインとフランスの位置関係がわからないのも、百人一首が一つも暗誦できないのも、なぜ船が水に浮かぶのかを説明できないのも、全部コンプレックスを持たないといけなくなっちゃいます。

生まれながらにして身体能力に違いがある。YES。その通りです。
生まれながらにして言語能力に違いがある。これもYES。
でもね、差はないんですよ。
早く走れる人が偉いわけじゃないし。
高く跳べる人が偉いわけじゃない。
自分の思った事を全部うまく伝えられる人が偉いわけじゃないし、
一回読んだだけでどんな本でも理解できる人が偉いわけじゃない。
ましてや英語をしゃべる人が、それだけでえらいわけがない。
そこには"違い"があるだけなんです。

英語学習者の間に努力の違いがある。YES。その通り。
でもね、差はないんです。
自分が英語を必要だと思うレベルに合わせて努力すればいいだけで、努力してない人が劣ってるわけじゃない。他人に比べて努力が足らないからってひけめを感じる必要なんてない。そのかわり、自分が求める英語レベルに対して努力が足りてないと思えば、それはマズイと感じるべきなだけです。

少し前にどこぞの小学校で「父兄からクレームがでるから運動会のかけっこは全員一等賞」なんてニュースがありましたが、こういう盲目的横並び思想で育つと、逆にこういう無意識な差別発言が生まれて良くないというのが私の持論です。
「差というものは相対的で一時的で可変的な物であり、"差"という概念で発言する場合には、必ずその人の主観がそこにのっかってしまうので、その人はそれに対して責任を負わなければならない。」という認識ができない日本人はたくさん見ました。
論拠も説明も無い「人間みな平等」という教育、権利と責任の所在が一致しない社会環境が、そういった国際感覚の欠如につながってるのは否めないと思います。
ちょっとしたことで、異文化の人との人間関係は円滑になると思うんですけどね。

言った本人はそのつもりはないのでしょうが、傷つく側はそれでもきっちり傷つきます。尊敬する人にそういう風に言われたら、それがそのままその人のコンプレックスを助長します。そしてそれが、「恥ずかしくて英語を話せない」日本人を増やします。

「言うは水に流し、聞くは岩に刻む」
たくさん傷ついて育って来た子ほど、この言葉の意味がわかります。
ええそうです。私はいじめられっこです(笑

それからアメリカの街中での、日本人・中国人・韓国人は、日本人から見ても区別つかない事は多いです。ましてやアメリカ人にとっては、何人だろうが大して違いありませんから、気にしないのは当然のことです。
もちろん、アラブ系・ネイティブアメリカン・アフリカンアメリカン・ヒスパニック・アジア人等のくくりがあって、そのどれかを特別に差別する人は、結構たくさんいます。差別とは関係ない理由で区別することももちろんあります。
しかしそれら全てをいちいち差別する人なんてごく一部です。めんどくさくてやってられませんしね。
だから"国籍に無関心"な場合ってのは、多分ほとんど"国籍が意味を持たないと思っている人"、または思える状態にあるっていうことです。
ビジネスにしろ、町で何か尋ねるにしろ、観点は別のところにあるわけですから。英語がしゃべれるかどうかとかね。

そもそも「国内で生まれた子供は全部アメリカ人」っていう発想からも分かるとおり、アメリカ人はアメリカ人である事に、日本人ほどの先天性とか絶対的価値を感じていない人が多いです。
だから税金や政治参加や社会貢献を通じて、"アメリカ人たる"ことを確認しようとするし、スーパーボウルやワールドシリーズなどのイベントになると必ず「軍人として国家に貢献した人」がでてきて、国威高揚をはかります。さらに「アメリカ英語をしゃべる」という共通点において、一体感を持とうとします。「他人同士が集まってできた国家だからこそ、より強くより自発的に結束しなければならない」という発想が生まれます。

まあ別に社会学者でも何でもないので偉そうに書くのはこのへんにしときます。
Posted by ほっとあーるぐれい at 2006年03月21日 22:30
ほっとあーるぐれいさんへ
(すごく長いですよ。びっくりしないで下さいね。)

ちょっと待って下さいね。もしかして私、地雷か何か踏みましたかねぇ?
別に冗談で逃げるつもりもお茶を濁すつもりもないです。ほっとあーるぐれいさんと意見が違うならそれも良し、または私の言葉足らずで気分を害されたなら、それは謝ります。

「6年間勉強して話せないのがまずい」と言ったのではないです。ネイティブ並みの先生に習って(これもまた、ネイティブ並みである必要はないかもしれないけど)、英語オンリーの授業でもしない限り、話せる英語が身に付くことはあり得ない(またはかなり難しい)、と言うつもりでした。
別に6年間の英語の授業が無駄だったというつもりもないです。有名な翻訳家の方が語学留学した際に、自分の文法知識は他の国の人に比べて豊富だったので、そのことについては感謝した、というエッセーを読んだこともありますし、私もこうして英語を再び学び直す際に、受験英語が役に立った部分も大いにあるわけですから。

ただ、日本の授業の英語含有率が低いのは間違いないでしょう。英語そのものに触れる時間が極端に少ないのです。
私は英語が好きだったけど、それでもネイティブと話す自信は生まれませんでした。つまり、コンプレックスを持っている人間というのは、私自身のことです。

努力することができるのも能力のうちなのかもしれません。もちろん、同じように努力して、結果が違うなんてことは常にあります。大して勉強してなさそうに見えて、自分よりずっと賢い人(←本当は、人知れずすごい努力をしていた、という可能性もあるけど)を星の数ほど見てきた私としては、「私は私なりに努力してきたんだ」と自分を納得させる必要もあるわけです。
努力というのは、人と比べて努力したかしてないかではなくて、自分としてやれるだけのことをやるかどうかだ、というのはその通りだと思いますが。

「努力」という言葉を前面に出すのは、いわゆる日本の横並び主義への抵抗です。私はかけっこが遅い子でしたし、それで一等にしていただいても嬉しくもなんともありません。自分の得意分野でないのを知ってるからです。練習したこともありませんし。「みんな頑張ってるんだから」という理由で横並びにすることは、ある意味、本当の努力への冒涜です。
また、努力したからと言って報われないのも現実です。仮に私がかけっこの前に人よりたくさん走りこみをしていたからと言って、それで一等が取れるとは当然思えないわけですから。以前の自分より少しは速く走れるようになるでしょうが、それだけです。でもそれが努力の結果の正当な形ですし、それを卑下もしないし、それで自分はきっとある程度は満足できますよね。(「かけっこ」という大人にとってはささいなことで説明を逃げたわけではありません。子供の世界では、かけっこで、目立ってヒーローになるか、遅くて惨めになるかは結構重要なことでしたよ。)

いくら私が傲慢でも(恐らく、文章のどこかに、私の傲慢な部分が見えたので、カチンときたんだと思いますが)、どの分野でも頑張ればそれなりの成果を出せると思ってるわけではありません。
「無意識な差別発言」という言葉がどうもひっかかるんですが、私はそんなことを言ったつもりも、認めたつもりもないんですけどねぇ。
「努力してない人が劣ってる」と言ったつもりもないですよ。自分の嫌いな分野では努力なんかできないですし、自分にとって意味のないことに時間を割くのは、時間の無駄でしかありません。

ただ、「英語をしゃべりたい」と強く思うのなら、やはり自分で努力しないと、道は開けないと思うわけです。
英語に限らず、何かを達成しよう、やり遂げようと思うなら、そこに必ず「努力」は付いて回るものだと思うんですが。
「努力」して、自分に自信がついて、それでネイティブと話せる度胸がつく、というのは自然な流れで、それは悪いことではないですよね。それぞれが自分に自信がつくだけの努力をすればいい、ということです。

理想としては、「人類みな平等」であるべきでしょうが、実際はそんなことはないですよね。生まれた環境、持って生まれた能力・素質、性別による差、など、個人にはいかんともしがたい部分がたくさんあります。それを克服するには、「自分なりに努力すること」しか残ってないですよね。少なくとも、私にとってはそうでした。

だから、私は「日本人がみな同じように6年間英語を学んできて、しゃべれる人としゃべれない人がいる」と言ったのではなくて、「6年間学んだのにしゃべれないのはおかしいじゃないか。どうしてくれるんだ、日本の教育!」と思っている人に対して、意見を述べただけです。誰でも、あれだけでしゃべれるようになるわけないんだ、と。
個人の差や違いの話、ましてや「偉いか偉くないか」の話ではありません。(別にほっとあーるぐれいさんを説得しようとしているのではありません。ただ、私はこう思っている、というのを書きたかっただけです。読んでいただくだけで結構ですよ。)

「アメリカ人が国籍に無関心なのは、国籍が意味を持たないと思っているから」というのは、その通りだと思いますね。日本人は島国根性のせいか、村意識が強いのか、そういう部分を気にしすぎると思います。
確かにアメリカ人は「先天的に」アメリカ人ではないですよね。アメリカ人として暮らしているから「アメリカ人」なわけです。それに比べて日本人は、顔つきや皮膚の色で「日本人か日本人でないか」を判断しがちだ、ということでしょうか。
Posted by Rach at 2006年03月22日 14:28
まあ別にどうでもいい話なんですが。
なので他の人が見ないように二日待って書いてみました(笑

日本人が英語できるできないの話になってくると、絶対に差別とコンプレックスは避けて通れないような気がするんですよ。
英語できる日本人の多くは、すぐに順位をつけたがります。会えばまず「どっちの英語が上か」という事を考えない人は少ないでしょう。それで、上とみれば強気に出て、下とみれば付き従う。
ほんとはどっちが上とかないのにね。スキルに”違い”があったとしても、それは努力の違いかもしれないし、環境の違いなのかもしれないし、経験の違いなのかもしれない。それは結局求めるものの違いであって、差ではないのですよ。
だからそこにコンプレックスを感じたり、努力してない自分を恥じたりする必要はないし、相手もそういうのを要求しちゃいけないんですよ。基本的にはね。もちろん、自ら自己を省みて、努力が足りなかったなぁと反省するのは自由ですが。

差別だってしちゃいけないわけじゃなくて、差別するならその責任をとらなきゃいけないってこと。だから無意識の差別はダメなのです。
”差”があるという表現を使う時、それはその人の価値基準を表現していることになります。それを当然のように言ったり、絶対的なもののように表現することは、価値観の押し付けになります。価値観の押し付けはアメリカでは絶対に受け入れられません。
以前にlaugh at とlaugh withの話をしましたが、”それは差じゃないよ違いなんだよ”"彼は○○なんだけどそれは彼の生き方だから良いとか悪いとかの問題じゃないんだよ”という発想なくして、laugh at は成立しません。


でまあ何が言いたかったかと言うと、余計なコンプレックスでせっかくのチャンスを生かせずに埋もれてる若い子を見るともったいないなって思うということ。それからFDJさんにお願い。不用意に、差が差がという発言をされているように見えたので。

とにかくまあ、関係ないとこで上下つけるのやめましょうってことです。努力してなくても、生きる権利はあるんです。
Posted by ほっとあーるぐれい at 2006年03月22日 19:49
今回も死ぬほど(?)長いです。私の頑固な部分が全開です。(主人にもいつも、「むっちゃ頑固や」と言われます・・・笑)

私は最初、ほっとあーるぐれいさんのおっしゃる「違い」と「差」の違い(?)がわかりませんでした。冗談ではなく、どちらも difference だろうと思ったし。
だから、私の中では完全に「差」と「違い」の置き換えは可能です。
ほっとあーるぐれいさんによると、差は上下関係を示し、違いは「上下関係なしの平等な関係」での個々の持つ特性(個性など)のへだたり(ここで普通なら「差」という言葉を出すけれど、ここでは出せない)、ということなわけでしょうか?
その二つの言葉の「違い」がわかってない、そこが鈍感で、無意識の差別を生み出すと言われてしまうと、私にも反論のしようがありません。
(でも、非難を恐れずに言うと、「差」はダメで「違い」は良い、という言葉遊びのように感じてしまう部分もあります。)

「差」について言及すること、イコール即座にそれが差別につながるのでしょうか? そう感じる人がいると言われればそうなのかもしれません。
そして、そのことに気付かない鈍感な私が無意識の上で差別していると非難されるのも、もっともなのかもしれません。
私はFDJさんの「差」発言に対して、何もひっかかるものは感じませんでしたよ。(擁護してるんじゃなくて、本当に何も問題は感じませんでした。)
そういう意味では、私の感覚もやはりほっとあーるぐれいさんにとっては受け入れがたい部分があるんでしょうね。
「努力の差」になる、という言葉を私がすんなり受け入れたのは、英語をある程度身につけた人は、学校での勉強以外に、自分で何かしら方法を見つけて取り組んだ、という「意欲の差」があったのだと思うからです。だからそれはほっとあーるぐれいさんの言われた「求めるものの違い」と言い換えは可能だと思います。学校教育で平等に与えられたもの以上を自分で求めないと、ある程度の英語は身につかない、ということです。

そして、「努力の差」があると言われて、言われた方がコンプレックスを持つ、というお話ですが、私にとっては、コンプレックスを克服するために「努力」が存在するのです。コンプレックスとは劣等感だと思いますが、そういう劣等感を感じた時に、人は「他の人の何倍も努力して、その”差”を克服しよう」と思うのではないでしょうか?

もちろん、そこで「努力できた人は偉くて、努力できなかった人が悪い」というつもりは毛頭ないです。ただの手段だと思うからです。
重ねていいますが、「努力してない人が悪い」とも、「身に付かないのは、努力してないからだ。」とも言ってません。
実際、私の中にも「努力してない」または「努力したのに身に付かなくてあきらめた」分野はあるからです。(誰にでもあるでしょう。)
そして、そのことを誰かにはっきりと口に出して指摘されたからと言って、私の場合は、それがすぐにコンプレックスに繋がることはありません。(それが事実だと思うからです。)

だから、私は「努力の差」という言葉がコンプレックスに繋がる、という話には、違和感があります。じゃあ、人はどういう手段でそのコンプレックスを克服すればいいんですか?(←怒ってるのではなくて、純粋な疑問)
「私は私なんだ。それは単なる個々の違いであって、上下などはないんだ。」と思える人であれば、そもそもコンプレックスなんて感じないはずですよね。

まず私は差別というと、先天的な部分での差別(性差など)を思い浮かべるので、それすら、完全に根絶されていない現在、そういう「努力の差」の部分までは気が回らない(「それすら、差別なのか?」という感覚がある)のが実際のところかもしれません。(努力しても埋められない、そういう先天的な差別の理不尽さはどうなるのだ!と思ってしまう)
女だから不利だなんて言うつもりはないですよ。女であるがゆえに得した部分も大きいし、差引で考えると、多分私の人生は女であることのメリットの方が大きかったようには思います。それでも、何かの折に、女であるが故に、叶わなかったこと、認められなかったことなども当然ありましたし。
でも、それでコンプレックスに感じたことはないですけどね。(それは単に私の気のキツさや、負けん気の強い性格によるものとも言えるけれど)
「男女の違い、区別」は厳然として存在するので、女として生きる以上、素直に受け入れるしかないわけです。
そもそも「男女平等」の概念も、いびつだと思う部分も多いです。「区別をなくせば差別がなくなる」というような単純な話ではなく、「何の根拠もない不当な優越感や偏見が存在すること」が問題なわけです。(男女差別の話は、個人的にはあまりしたくない。そういう部分を超越したところで人に判断されたくて、今まで頑張ってきたのが私の人生でもあると言えるから)

もちろん、その差を使って人を見下すのはいけないと思うし、そういう自分の尺度を押し付けるのがいけないのは当然です。
でも、例えば、すごく流暢できれいな英語を話す人がいたとして、「わぁ、この人、すごい。私とは全然違う。差がありすぎ。でも、私もこんな風になりたい!」と思って、目標にして憧れることは大きなモチベーションになりますよね。その人がすごいか、偉いか、というのはもちろん自分の尺度なので、人から見たらそれは違うということもあるかもしれません。でも、自分でそう思うこと自体は悪いことではないと思います。
差を感じて、ビビってコンプレックスを持ってしまう、のは良くないと思いますが、差は差として認識した上で、そこでコンプレックスさえ持たなければいいんでは?というのはきれいごとすぎるでしょうか?

順位をつけたがるのは、何も英語だけじゃないですよね。何かと日本人は順位をつけたがるような気がします。というか、一つの尺度で見ることに安心を見出すんでしょう。日本人は人を見極めたり評価したりするのが下手だと思うこともよくあります。日本では認められなくて、外国で認められると突然ちやほやしたりとか。自分の価値観に自信がないのかな、と思ったりもします。(だから、日本で有名になると、人は世界を目指したがるのでしょう。日本の評価に幻滅しているのだと思います。)

でも、実際にどっちの英語が「上か下か」なんてそんなにすぐにはわからないんじゃないですか? 試験の点数で単純に計れるものではないし。
仮に相手が「上」だと思っても、私は盲目的に付き従ったりはしないですよ。それが人間のプライドってもんでしょう。自分が全く英語に興味がなく、勉強したこともなかったら、それは全面的に従うのかもしれませんが、「自分なりに努力して」ある程度の英語を身につけたという自負があれば、自分の考えもちゃんと表明できるはずですよね。「上だろうが下だろうが」突き詰めた話をしていれば、そこから必ず双方のためになる話がでてくるはずだと思いますから。

そして、英語学習者のレベルの上下があるか、ということになると、やはり「ある」と言うしかないのでは?
現に、英語のレベルで「初心者(初級者)レベル」「中級者レベル」「上級者レベル」という大雑把な区分けが存在していますよね。通信教育でも英会話クラスでもそうなのではないでしょうか? その違いをコンプレックスに感じる必要はないはずです。単なる英語学習の段階を示しているだけですから。
自分でも、「英語が得意科目だ」と自負していた大学生の頃と比べて、今の英語力というのは明白な「差」があります。それは、英語学習において、段階を踏んで、ブレークスルーを感じてきたから言えることです。ブレークスルーを感じる前と後で、そのレベルに上下の差があるかと言えば、あると断言せざるを得ないでしょう。(TOEICの点数の上下ではありません。自分の中での実感です。)
その個人の英語学習における段階の差は、同時にいろんな人の段階にも通じるところはあるはずです。初期の段階だからといって卑下する必要はないわけです。学習をすすめて行くうちに、遅かれ早かれ次の段階に進む日が来るからです。英語学習者は、そういうブレークスルーを感じたいがために、勉強していると思っているのですが・・・。
私のブログは自分で「初心者向け」だと思っているのですが、だからと言って、私は自分が”さも「上級者」であるかのように”高いところからものを言っているつもりはありません。(そう感じた人がいるなら謝ります。)
自分が「初心者であった頃」、ドラマの英語を聞いてもちっとも聞き取れなくてチンプンカンプンだった頃に勉強したことを、そのままトレースして、文字にしているだけのことです。こうやって単語を関連づけて覚えたとか、こんな風に解釈したけど、本当はこうだったとか。
でも、そんな初歩的なブログでも、英語に堪能な人(英語を職業としている人など)が何か感じて下さる部分もあるみたいなんですよね。だから、その部分では、私もあまり卑下したりはせずに、自分の持っている知識や考えを素直に述べて、いろいろ一緒に考えたいと思うのです。

極論を言えば、
「上下の差」を認識して、そこで持ったコンプレックスを克服するために「人より努力をして」、コンプレックスを克服して自信をつけて、「上の段階にのぼる」
ことは、ある意味、正しい英語学習の道のりのひとつだと言えるのではないでしょうか?

P.S. 恐らく、この件に関しては、いくら語り合ったところで、平行線を辿るだけになりそうですけど・・・。いやなら、打ち切って下さい(笑)。
Posted by Rach at 2006年03月23日 15:08
まあ論点がずれている以上、意味ないでしょうね。
このへんでやめとくのが大人ってものです(笑
他の方の気分を害するだけで(読んでればですが)意味ないのでやめときましょう。
海よりも深く反省。
Posted by ほっとあーるぐれい at 2006年03月23日 19:53
そうですね、明らかに噛み合ってないですよね。
やっぱり受け止め方っていうのは、その人の人生や経験によるものだから、わからない場合は、果てしなくわからないわけです。それを今回は実感しました。(良い勉強になりました。)
多分、私が言われて死ぬほど悲しかった言葉とその理由をここで説明しても、ほとんどの人はわかってはくれないだろう・・・というのと同じだと思います。人はその人の立場になってみないと、完全には気持ちを理解することはできないのだと思います。
「差」の話は、今の私にはやっぱり何度読んでもわかりませんでした。ごめんなさい。
Posted by Rach at 2006年03月24日 13:58
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