2006年03月19日

「しゃべれる」か「しゃべられる」か?

今日は、「しゃべれる」または「しゃべられる」のどちらが正しい日本語か?という話です。
まさに、究極の脱線話。(新たに「脱線話」というカテゴリーを追加しました・・・笑)
英語にしか興味のない方は、また明日お会いしましょう(笑)。

昨日の記事で「英語を話せますか?」というフレーズが出てきたのですが、最初は「英語をしゃべれますか?」と書こうとしていました。
そこで、ふと、「しゃべれる」ってもしかして、今流行の「ら抜き言葉」!? でも「しゃべられますか?」って何か変だよなぁ・・・と思ったら、すごく気になってしまって・・・。
で、調べ物をしていたら、それにすっかりハマってしまいました。
そういう場合には、何らかの形で考えをまとめておかないと先に進めないタチなもので、これは私の単なる覚書なんですが(そんなものを読ませてすみません。)

英語の勉強に夢中の私ですが、やはり私も日本人。
英語を勉強するにしても、日本語の気になるところは無視できないんですね。
英語の三単現の s などは気になるのに、日本語の活用形はどーでもいい、ちゅーのも何だか変な話だと思いますし。
ということで、ちょびっとでも興味のある方のみ、下にお進み下さいませ。

「しゃべれる」と「しゃべられる」のどちらが正しいかは、Google で検索して、検索結果の数が多い方を正しいとみなす、のが一番手っ取り早い方法だと思います。(絶対に正しいと断言はできませんが・・・)
ちなみに検索してみると、しゃべれる 約 840,000 件、しゃべられる 約 38,100 件で、圧倒的に「しゃべれる」が勝ち!です。
本のタイトルなどに使われているのも、ほとんどは「しゃべれる」なので、やはりこちらが正しいということは間違いないようです。
自分でも「しゃべられる」とは言いませんし、「しゃべれる」の方が自然な感じがします。

でも、どうして「しゃべれる」なんだろう?

「しゃべれる」という言葉を聞くと、「ら抜き言葉」か?と思う人も結構いるようなんですが、実は
「しゃべれる」は、「ら抜き言葉」ではなく「可能動詞」
というものらしいのです。(自分でいろいろ調べた結果、そういう結論に達したのですが、それが違っている可能性ももちろんありますので、「らしいのです」と書いています。)
「可能動詞だってことは、とうの昔に知ってるよ〜ん!」という方は、ここでさようならですね。

これ以下は、日本語の文法の話です。
こんな説明は嫌いだ!という方は、(→→→ここまでワープ!)までお進み下さい。(ワープしても、先はまだまだ長いんですけどね。)

可能を表す助動詞「れる」「られる」というものがありますが、この使い分けは、

「れる」は、五段、サ変の未然形に接続
「られる」は、五段・サ変以外の動詞(上一、下一、カ変の動詞)の未然形に接続

となっています。
ここでは五段と書いていますが、五段活用は四段活用とも言われることもあります(広辞苑ではすべて「四段活用」と書いてあります)。
未然形とは、下に「ない」をつけた時の語尾変化で判断するといいんですよね。

よく「ら抜き言葉」の代表として言われるのは「来れる」「見れる」ですが、これは正しくはそれぞれ「来られる」「見られる」になります。
「来る」はカ変動詞(カ行変格活用動詞)なので、活用は「こ、き、く、くる、くれ、こい」で、上の規則に則って考えると、カ変は未然形の形で「られる」に接続するので、「こ」+「られる」なので、「こられる」。
「見る」は上一段活用動詞なので、活用は「み、み、みる、みる、みれ、みよ(or みろ)」で、未然形「み」+「られる」で、「みられる」、が正しいわけです。
その可能を表す助動詞「られる」の「ら」が抜かれているので、「ら抜き言葉」として誤った乱れた日本語とされているわけですね。

では「喋る(しゃべる)」は?
「喋る」は五段活用動詞です。
活用は、「ら(orろ)、り、る、る、れ、れ」なんですが、これは
未然形 しゃべら(ない) or しゃべろ(う)、
連用形 しゃべり(ます)
終止形 しゃべる(。)
連体形 しゃべる(時)
仮定形 しゃべれ(ば)
命令形 しゃべれ(!)
と活用してみればわかりますよね。(五段が四段とも言われるのは、「しゃべろう」という場合のオの段を含めないとすると、四段になるわけです。)

(→→→ここまでワープ!)
つまり「しゃべる」の未然形は「しゃべら」、それに可能を表す助動詞「れる」をつけるわけだから、動詞活用表によると、本当は「しゃべられる」が正しいということになるのです。
時々、「しゃべれる」が正しい理由として「”しゃべる”は五段活用だから、”られる”ではなくて”れる”がつくのだ」という解釈を聞くことがあるのですが、その説明では、「しゃべ」に「れる」がくっついたことになり、「未然形につく」という動詞の活用の原則からすると、おかしなことになります。
つまり、「五段活用だから」と言うだけでは「しゃべれる」になることは説明できないのです。

そもそも、何故「れる」と「られる」の差があるのかを考えてみると、五段の動詞は未然形が「アの段」になります(サ変は特殊だからこの場合は外します)。
だから、ここに「られる」をくっつけると、「しゃべら」+「られる」で、「しゃべらられる」になり、他にも「行かられる」などとアの段が続く不自然な言葉になってしまいます。
だから、五段動詞には「られる」ではなくて「れる」がつく、ということだと思うんですね。

では、本来は「しゃべられる」のはずなのに、当たり前のように使われている「しゃべれる」とは何なのか?
見た感じは「来れる」「見れる」の「ら抜き言葉」に似ているように見える「しゃべれる」、これは実は「可能動詞」というものです。

広辞苑の定義によると、
可能動詞=四段(五段)活用の動詞が下一段活用に転じて、可能の意味を表すようになったもの。「読める」「書ける」の類。命令形を欠く。

Wikipedia 可能動詞
では、実際の可能動詞の例、詳しい説明が書かれています。
(残念ながら、可能動詞の例の中に「喋れる(しゃべれる)」は入っていないのですが・・・泣)

どうして下一段活用に転じたのか、については、以下に引用した Wikipedia の説明がわかりやすいと思います。

「行ける」のような可能動詞は、「行き得る」といった「連用形+得る」の表現が変化したもの。(Wikipedia より)

これを「しゃべれる」に当てはめると、「しゃべり」+「得る(える)」→「しゃべりえる」→「しゃべれる」になった、ということになりますね。
確かに広辞苑にも、
得る(える)=(動詞の連用形に付いて)可能とする。・・・できる。
と書いてあり、例としては、「禁じえない、言いえて妙」などが挙げられています。
(現在の「ら抜き言葉」と同じように、「しゃべられる」が「しゃべれる」になった、という可能性もゼロではありませんが、この可能動詞の話の方が私は説得力があるように感じました。)
今の文法では、”五段活用だけ”が可能動詞になるのですが、それを上一段に応用するとどうなるのか?
例えば、上一段の「見る」だと、連用形「み」+「得る」→「見える」になって、「見れる」にはなりませんよね。
だから、「見れる」はやはり間違いだと言うことになるんだろうか・・・?(これを考え出すと果てしないので、やめときましょう。)

つまり「しゃべれる」は、
動詞「しゃべる」+可能の助動詞「れる」の「ら」が抜けた形、ではなく、
「しゃべることができる」という意味の、ひとつの「可能動詞」である

ということです。(全く別物なんですね。)

可能動詞の「読める」(読むことができる)、「行ける」(行くことができる)などはちゃんと広辞苑にも載っています。
本来はどちらも「読む」「行く」という五段活用の動詞なので、「れる」をつけて可能を表そうとすると「読まれる」「行かれる」になるはずですが、「読める」「行ける」で正しい言葉として認識されているわけです。
残念ながら「しゃべれる」という単語は広辞苑には載っていないのですが、「読める」と同じように「五段活用が下一段活用に転じたもの」とみなすことができると思うので、やはり誤用ではない、立派な可能動詞と言い切っても良いと思います。

現在の時点ではっきりと言えるのは、「五段活用の動詞から派生した可能を表す可能動詞」は、文法上ちゃんと認められた正しい日本語だと言うことですね。
それが、「ら抜き言葉」の問題が出てきた余波で、本来正しいはずの「しゃべれる」までが誤用と見なされてしまっているようです。
「読める」「行ける」と違って「しゃべ”れる”」と「れる」がついているので、「られる」の「ら」を抜かしたように見えてしまうから余計でしょう。

確かに上に書いたように、助動詞「れる」をつける場合は「しゃべられる」で正しい形なので、「しゃべられる」が間違っているわけでもありません。
ただ、「しゃべれる」は「ら抜き言葉」で間違いだからという理由で、わざわざ「しゃべれる」に「ら」を追加して「しゃべられる」にする、というのはやはりおかしいわけですね。
「しゃべれる」という可能動詞があるために(あるいは出来たために)、「しゃべられる」という動詞+助動詞を使う頻度が減って、廃れてきた、のが現在の姿なのかもしれません。

そもそも問題なのは、「れる」「られる」には、「自発、可能、受身、尊敬」という4つの意味があり、「見られる」と聞いただけではその4つの意味のどれかがはっきりしませんよね。
「ら抜き言葉」が流行る背景には、「可能」を表す意味だけ、他のものとは明白に区別したいという意識が表れているのだと思います。
そして何故だか、五段活用だけは「可能動詞」として「可能」だけを区別することが可能(笑)なんですね。

「しゃべられる」という言い方がなんとなくしっくり来ないのは、「しゃべる」というのは意志を持った行為だから「自発」にはそぐわないし、受身では「しゃべりかけられる」とは言うけど「しゃべられる」とはあまり言わないし、「しゃべる」は「くっちゃべってる」って感じで尊敬のニュアンスとも合わないし、だからそもそもあまり耳にしない言い回しなんですね。
最初に「しゃべれる」か「しゃべられる」かでぐぐった結果、「しゃべられる」が少なかったですが、これがもし「自発、受身、尊敬」の意味としても使われる言い回しだったのなら、もっと「しゃべられる」の数が増えたでしょうし、単純にどちらが正しいかを比較できなかったかもしれません。

今は「ら抜き言葉」は間違いだということになっていますが、「見られる」では4つのどれかが判別できなくなるために、わざわざ「見ることができる」と言い直すよりも、可能動詞として「ら抜き言葉」の「見れる」が標準化する方が、自然な感じが私はするのですが。
将来的にはそれが標準になって行くのではないでしょうかねぇ。

それに、方言という点で考えると、「見れる」が普通だ、という地域もあるでしょう。
私もこれを書いているうちにだんだんわからなくなってきましたけど、大阪弁を話す時に、
「今日、あの子、来れるかなぁー?」「来れへんて言うてたよ。」
「今すぐ家に帰ったら、その番組、見れるんとちゃう?」とか何気なく言いそうな気がするんですけど。(確かに、「来られる」「来られへん」「見られる」と言っても、変じゃないけど・・・。結局、上の例も「ら抜き言葉」の大阪弁version に過ぎないのか?)

それにしても、ここまで英語に無関係な話を書いたのは初めてです。
ここまで読んで下さった方は果たして何人いらっしゃるのでしょう?
まぁ、私と同じようなことにひっかかった人が、いつか調べ物をしていて、この記事を見て何か思って下さればいいかな、って程度なんですけども。
でも、日本語を学んでいる外国人の方って、意外とこういう部分をムキになって文法書調べて勉強してるのかもしれない、とか思ったりして。
そう考えると、ちょっと楽しい、かも?(←強引な理由づけ・・・笑)
明日は、フレンズ解説に戻ります、絶対!

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posted by Rach at 20:21| Comment(6) | 脱線話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私が脱線の専門家のsatです。専門家から言わせてもらうと、世の中には「良い脱線」と「悪い脱線」があって、今回は「良い脱線」だと分析させてもらいます(笑)

>「しゃべることができる」という意味の、ひとつの「可能動詞」である
私もそう思うんです。でも、「それは違う」と先生に言い負かされたことがあるんです。昔の話で何を言われたか忘れたんですが、とにかくしぶしぶ負けを認めたことがあったんです。・・いま思うと、くやしい!
Posted by sat at 2006年03月19日 21:19
satさんの記事は「脱線」というよりは、やっぱり「幅が広い」んですよ。(おだててるのではなく(笑)、本当にそう思ってますよー!)
良い脱線と分析していただいて、ありがたいです。
それから、きっと最後まで読んで下さったんですね。そのことにも感謝です。(記事を投稿した後、最後までスクロールして、その長さにいつもあんぐりしています、自分で)

可能動詞である、ということについて、先生と議論されたことがあるんですか? 熱血生徒だったんでしょうか?!
私のこの記事なら、先生を言い負かすこと、できそうですかねぇ?

調べてみると、「しゃべれる」についてはいろんな意見があるんです。いろいろ探しているうちに、Wikipedia の説明が非常に納得できたんですよね。もちろん、Wikipedia は誰でも記事を投稿できるので、間違ってる可能性もないではないです。だから、私の信頼する「広辞苑」や、文法の原則などに照らし合わせてみて、裏を取ってみたのが、上の記事なんですよね。
ネットではいろんな情報が溢れていて、それは違うんじゃないかなー?と思うことでも、自信ありげに書いてあったりするので、私も負けじと頑張ってみた、という感じです。
Posted by Rach at 2006年03月20日 15:01
大阪弁ってこの「ら」の活用からみると、かなり紛らわしい方言だと思います。私も「ら」はいるのかいらないのか迷うことがあって、自分の使う言葉が子供の言葉遣いに直結するようになってからは、ますます気になるようになりました。上の子のときは、あまりに意識しすぎて私の言葉遣いが標準語に近くなったため、全く関西弁を話さない時期がありましたよ(笑)。日本人でありながら、正しい日本語が話せない・・・そんな私が英語を学習しているなんて(笑)。でも、外国語を学んでいるからこそ日本の文化や言語に目がいくようになるとも言えるんですよね。
Posted by KIKKA at 2006年03月25日 16:32
方言って、何が正しいのか調べるのも難しいですしねぇ(笑)。
うちは夫婦ともども、コッテコテの大阪弁なので、まぁ子供もそれで良かろうと思って、標準語を使うことは意識しませんでした。
息子が幼稚園に行ってからしみじみ思うのですが、家できれいな標準語を話していたとしても、幼稚園で子供の大阪弁をちゃんと覚えてきちゃうので、やっぱり住んでる場所の言葉になっちゃうみたいですねぇ。
まぁ、やっぱり生まれ育った自分の故郷の言葉は大好きなので、子供がそれを見事に駆使している(!?)のを見ると、とても嬉しいですね。私も小さい頃、こんなんゆうてたなぁ、とか思って。

外国語を学ぶと、やはり母国語を見る目も変わりますよね。
こんな風にブログを書いていると、パソコンの英和辞典を引きながら、同じくらい国語辞典でも調べたりしてますよ。正しい漢字を調べたり、いざ使おうとした日本語が間違ってるような気がしたり・・・。
やはり、日本語にも英語にも同じように敏感でありたいものですよね。
Posted by Rach at 2006年03月26日 14:27
同じように「しゃべれる」「しゃべられる」に疑問を抱き、ここに引っかかったものです^^調べ物をまとめてくださってとても助かりました。私は日本語教師をめざし、日々日本語には注意をしているんですけど、しょうじき、方言とかの問題もありますし、正しい正しくないなんか、どうだって良いと思うんですよねぇ(笑)そもそも言葉ってコミュニケーションツールですし、意思疎通できればいいじゃないですか!と言いながらも、日本語教師になったらそんなことも言えないので、勉強勉強の日々です。このページを参考にさせていただきます^^ありがとうございました。
Posted by まぼい at 2006年05月15日 23:22
まぼいさんへ
コメントありがとうございます!
うまくまとまっているかどうかは自信ないのですが・・・(笑)。ただ、何かを気にし始めると、とことん調べないと気がすまないタチなんですよね。私も何となくぼんやりとしか理解していなかったことを、いろいろ調べてすっきりしました。

方言の問題というのは確かにありますよね。文法上正しいか正しくないか、というよりも、自然で一般的な表現かどうか、というのが大事なんだと思います。私は英語ブログを書いていますが、英語に対しても、文法に捉われすぎず、ナチュラルな英語が話せる人間になりたいと常々思っているのですが・・・これが結構難しい(笑)

日本語の先生をされるのであれば、日本語を学んでいる方にいろいろと細かいことを質問されちゃうんでしょうねぇ。日本人には思いも寄らないことを尋ねてこられて、却って日本人の側が勉強になりそうな感じもします。
ご活躍を期待しております。頑張って下さいね。
Posted by Rach at 2006年05月16日 09:20
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