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非公開コメントにて、文法に関するご質問を頂戴しました。
最初はどこかのコメント欄にてお返事しようと、自分なりの見解をまとめていたのですが、また(いつものように…笑)説明が長くなってしまったことと、文法的に興味深い話題だと思ったので、今日はそれを一つの記事として、投稿させていただきます。
なお、以下に書く内容は、正直、私も「確信」はありませんので、あくまで一つの意見としてお聞きいただけると幸いです。
まず、ご質問について。
1. They have a house.
2. They have their own house.
3. They have their houses.
they とは 友達3人で、別々に暮らしていて それぞれ家を一つ持っている。
という意味だと、1と2が正解ということでしょうか?
主語が複数形だと、そのあとに続く名詞を 単数にするべきか、複数形にするべきか いつも悩んでいます。
…というご質問でした。
以下に、私の見解を述べさせていただきます。
「別々に暮らしている3人の友達が、それぞれ家を一つ持っている」ということだと、
2. They have their own house.
が一番適切かなと思います。
1. They have a house.
でも、そのような意味に取れるとは思うのですが、複数の人間が1つの家を持っている、複数の人間で1つの家を共有している、つまり、They share a house. のように聞こえる可能性もあると思うのですね。
They have a house. という文の場合だと、前後の文脈がなければ、複数の意味に取れてしまう可能性があるということです。
主語が複数形の場合、目的語を単数形にするのか、複数形にするのか、でお悩みとのことですが、そのお悩みは大変よくわかります。
主語の複数の人を図に書いて、それぞれが家を持っていると絵にすると、家も複数個、書くことになるわけですから、そのイメージからすると、目的語も複数形の houses になるのでは?と思われるのも無理のない話だと思います。
このような「主語が複数形」の場合については、私が持っている文法書の
数研出版 「基礎と完成 新英文法」 (安藤貞雄 著)
に説明が載っていました。
この本でわかりやすくまとめて下さっているので、以下に引用させていただきます。
(ちなみにこの本は、典型的な「受験英語参考書」なのですが、私は学生時代からこの参考書が好きで、32歳で英語のやり直し学習を始めた時に、また新たに買い直した、という本です。)
p.496
第32章 呼応
400. 主語と目的語との呼応
次のような場合は、各人がそれぞれ1つずつ所有しているものなので、普通、単数を用いる (”配分単数”)
We have a nose. 「我々には鼻がある。」
The girls were nodding their head [heads]. 「少女たちは、うなずいていた。」 [単数の方が普通]
(引用終わり)
上の説明にあるように「配分単数」という言葉で説明される文法概念があるようです。
研究社 新英和中辞典の distributive の項目にも、
distributive 【形】【A】 〔文法〕 配分的な
the distributive singular 配分単数 《複数の観念を個別的に配分してさす単数形; たとえば We have a nose. における a nose》
のように「配分単数」という言葉が出てきます。
ここでの例文も、We have a nose. になっていて、これが「配分単数」を説明するのに最も適切な例だと言うことなのでしょうね。
ちなみに、形容詞の下の「名詞」の語義では、
【名】【C】 〔文法〕 配分詞、個別的[配分]代名詞[形容詞] 《each, every など》
と説明されています。
「配分」のニュアンスは、each や every のような感覚、だと理解するとわかりやすいですね。
そういう「配分単数」の場合は、「各人がそれぞれ1つずつ所有しているものなので」という部分がポイントになってくるかと思います。
上の例で言うと、「1人の人には、鼻は1つ、頭は1つ」という基本認識があるので、主語が複数形であったとしても、主語の複数の「それぞれの人には」鼻が1つある、「それぞれの人が」自分の1つの頭を縦に振る、というイメージが得られる、ということなのでしょう。
こういう文章の場合は、They = Each of them だと理解される、ということですね。
そのように、鼻や頭のように「各人に1つ」であることが前提となっているもの以外では、このような「配分単数」の原理は働かないようにも思います。
例えば、ご質問の a house であれば、一人の人が複数の家を持つことも可能だし、複数の人で一軒の家を持つことも可能なので、「各人がそれぞれ1つずつ所有しているもの」という前提が成り立たない、という気がするのです。
ですから、They have a house. だと、必ずしも「一人につき一軒」という前提がないために、They share a house. という意味に理解される恐れもあるだろう、と思うのです。
意味を明確にするためには、2. They have their own house. のように、目的語に own をつける、あるいは、主語を They ではなく、「彼らのそれぞれ」であることをはっきりさせるために、Each of them と表現すると、別の意味に取られる心配がなくなるように思います。
3. They have their houses. という文章も、意味がいろいろ取れそうな気がしますが、この形だと、「複数の人間が、それぞれ複数の家を持っている」と理解される可能性が高い気がします。
ということで、長くなりましたが、私の結論としては、「別々に暮らしている友達3人が、それぞれ家を1つ持っている」という英文だと、
They have their own house.
または、
Each of them has a house.
にするのが適切かな、と思います。
They have a house. だと、そういう意味にも取れるけれど、They share a house. だと思われる可能性もある、というのが私の意見です。
私は、ドラマや映画のDVDを見る時に、セリフをPC上にメモして、それをデータベースとして英語学習に使っているのですが、自分でざっと調べた限り、今回のご質問の答えとして使えるような、理想的な例を発見することができませんでした。
また、English Grammar in Use (Cambridge) のような英語で書かれた文法書も調べてみたのですが、the distributive singular (配分単数)の項目を(私が見た限りは)見つけることができませんでした。
ですから、説明の根拠となる情報が少ないので、最初に述べたように、正直あまり確信はありません。
また、皆様からのご意見もお待ちしております。
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2011年12月21日
2006年01月27日
ハートで感じる英文法(その2)
昨日放送の「ハートで感じる英文法 会話編」の倒置の回を早速見ました。
大西先生のトークがどんどん調子出てきてますね。
いつまで mission を「みっちゃん」と言い続けるのかを最後まで見届けたいところです(笑)。
でもあの mission のコーナーの時間の使い方が、非常にもったいない気がするのは、私だけでしょうか・・・?(でも、あいこちゃんが可愛いから許す・・・笑)
さて、昨日の続きなんですが、実はこんな意見を耳にしました。
「あの感覚は、あくまでも日本人一人とイギリス人一人の持つイメージにすぎない」というものです。
私も全てのネイティブがああいうイメージを持っているかどうか・・・というと、すべてのネイティブに共通するものとは言えないかもしれない、という気もします。
あの説明で、何もかも説明できるだろうか?というと、それも私には何とも言えません。
何だか奥歯に物が挟まったような言い方ですが、私は英語圏で生まれ育ったわけじゃないし、英語に対するイメージを無意識に身につけたわけでもないので、正直わからないんですね。
ですが、仮に「あの感覚がネイティブ全てに共通するものではない」という意見を受け入れたとしても、それであのイメージがいい加減なものであるとは言えないと思います。
英語を研究し、学ぼうとしてこられた人が、その学ぶ過程で持ったイメージというのは、それがすべてにオールマイティーに通用しなくても、そのイメージの一部を表していることは間違いないと思うからです。
人それぞれ、感性も感覚も異なりますし、何かに対して持つイメージは人それぞれだと思います。
逆に、決まった一定のイメージがあるのであれば、世の中にこんなにたくさんの英語解説本が溢れているはずはありません。
それぞれ、いろんな方法で英語を習得された方々が、それぞれ感じたイメージで、なんとか英語を説明しようとするから、たくさんの英語関連の本があるわけですよね。
それは英語学習法も同じで、これさえやれば絶対大丈夫!などと言う王道はきっと存在しないのだと思います。
同じ教材を使っても、効果のある人とない人がいる、それは人間がみんな同じではないので、当たり前のことなんですよね。
語学には、数学のように万人に当てはまる公式は存在しないはず。
だから、先生のイメージの話を聞いて、「私にはピンと来ないなぁ。」という人もいるでしょうし、「悩みがサッと解決した。」という人もいるでしょう。
そして、大西先生が今、絶大な人気を誇っているのは、あのイメージを聞いて「ピンと来た」と思う人が多いということですよね。
逆に、かなりの英語力を持った人で、自分なりの確固たるイメージを掴んでいる人は、「私の感じ方と違う」と思われるのではないでしょうか?
でもそれはそれでいいのです。それがイメージというものだからです。
英語がわからない、と思っている人ほど、「いろんな人の意見をまずは素直に聞いてみる」ことが必要だと思います。
あらゆる人の解釈を聞いて、自分にピンと来る部分だけでも受け入れていけば、それだけでもかなりの力になると思います。
それを完全に自分のものにするには、やはり自分で英語に直接触れなければいけないと思いますが、ある程度、そういうイメージを確立してから臨む方が、恐怖感を抱かないで済むと思います。
スポーツを習うときに、理論的に良いフォームを研究したり、上手な人のアドバイスを受けたりするのと同じでしょうか。
何を始めるにしても、やみくもに始めると、ただ時間だけが過ぎていきます。
できるだけゴールからブレないように進むためには、そうやってイメージを固める必要があると思います。
その上で、自分にあったフォームに変えて行き、使えるアドバイスは使う、自分には合わないと思ったことは捨てる、を繰り返して、自分のものにしていけばいいんですね。
英語初心者の場合は、まず英語を見てイメージを掴むところまで行かないのが現状でしょう。
構文を読み取ろうと思うか、単語を調べようと思うかで、その文のイメージまではまず気が回らないですよね。
そういう人にとっては、「瞬間イメージ」を思い出すことで、パッとその文章のザッとしたイメージを思い浮かべることができるわけですから、とっつきやすいのです。
ある程度、自分でイメージが掴めるようになっている人は、「へぇ、大西先生はそんな風に見てるんだ!」という、違う人の視点を発見する気持ちで見るのも良いのではないかと思います。
そういう捉え方もあるんだなぁ、参考になるなぁ、という感じで。
何事も、学ぶ場合は、広い視野を持って、人の意見を素直に聞く心がけが必要だと思います。
できるだけ多くの考えに触れて、そこから自分の考えを固めていくことが大事です。
誰かの意見を聞いた時に、全面肯定する、あるいは、全面否定する、ということほど愚かなことはありません。
何がしかの真実を掴み取り、自分の知識を深めていくことこそ、大切ですよね。
ある程度の大人なら、取捨選択の能力も必要なのです。
何故、こんなお堅いことを書いてるのか我ながら不思議なんですけど、要は、あるものが一気に人気が出てくると、それをそっくりそのまま100%受け入れて批判に耳を貸さない人と、その揚げ足取りばかりして有効な部分すら見て見ぬふりをする人が大量に出現するからです。
(私も大西先生の話については「そっくりそのまま受け入れている」クチかもしれませんが、批判に対して感情的になるつもりはありません。)
人の理論が良いか悪いかは、受け止める人が判断すれば良いことです。
そして、相性というものもあるでしょうから、ある人には納得で、ある人には理解不可能ということも必ずあるわけなんですよね。
私は大西先生の話を聞いて、違和感は感じません。
多分、感性が似てるんでしょうね。
「ふーん、なるほど!」と思いながら毎回楽しく見ていますよ。
でも、違和感があるという人がいたとしても、それは理解できるつもりです。
それからもう一つ。
今回のブームで、ちょっと気になることを挙げるとすると、この大西先生の理論は、とっつきやすく簡単に見せていますが、実は「簡単」であることがポイントではないはずなんですよね。
でも、「昔習った、小難しい英文法に比べて簡単だから、理解しやすい。そうか、英語はこんなに簡単なんだ!あんな文法書は捨てちゃって、これだけやってればいいんでは?」みたいな印象をもし受けた人がいるとすれば、ちょっと問題なのではないかなぁ、と思ったり。
でも、大西先生ご自身が「ハートで感じる英文法」の本の帯に、このようなことを書いておられます。
英文法の「知識」はムダではない、それを「感覚」に転換すればよい。
だから、決して、いわゆる文法書はムダでも不必要でもないんです。
でも、「英語は難しいからわからない、勉強したくない。」と言う人がたくさんいるよりは、「簡単そうだから、ちょっとやってみよう。」と思う人が増えた方がいいのは、間違いないんですけどね。
たまには真面目なことも書こうと思ったけど、ちょっと違和感ありますかねぇ?(読んでて気分害された方がおられたらごめんなさい。)
(Rachからのお願い)
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大西先生のトークがどんどん調子出てきてますね。
いつまで mission を「みっちゃん」と言い続けるのかを最後まで見届けたいところです(笑)。
でもあの mission のコーナーの時間の使い方が、非常にもったいない気がするのは、私だけでしょうか・・・?(でも、あいこちゃんが可愛いから許す・・・笑)
さて、昨日の続きなんですが、実はこんな意見を耳にしました。
「あの感覚は、あくまでも日本人一人とイギリス人一人の持つイメージにすぎない」というものです。
私も全てのネイティブがああいうイメージを持っているかどうか・・・というと、すべてのネイティブに共通するものとは言えないかもしれない、という気もします。
あの説明で、何もかも説明できるだろうか?というと、それも私には何とも言えません。
何だか奥歯に物が挟まったような言い方ですが、私は英語圏で生まれ育ったわけじゃないし、英語に対するイメージを無意識に身につけたわけでもないので、正直わからないんですね。
ですが、仮に「あの感覚がネイティブ全てに共通するものではない」という意見を受け入れたとしても、それであのイメージがいい加減なものであるとは言えないと思います。
英語を研究し、学ぼうとしてこられた人が、その学ぶ過程で持ったイメージというのは、それがすべてにオールマイティーに通用しなくても、そのイメージの一部を表していることは間違いないと思うからです。
人それぞれ、感性も感覚も異なりますし、何かに対して持つイメージは人それぞれだと思います。
逆に、決まった一定のイメージがあるのであれば、世の中にこんなにたくさんの英語解説本が溢れているはずはありません。
それぞれ、いろんな方法で英語を習得された方々が、それぞれ感じたイメージで、なんとか英語を説明しようとするから、たくさんの英語関連の本があるわけですよね。
それは英語学習法も同じで、これさえやれば絶対大丈夫!などと言う王道はきっと存在しないのだと思います。
同じ教材を使っても、効果のある人とない人がいる、それは人間がみんな同じではないので、当たり前のことなんですよね。
語学には、数学のように万人に当てはまる公式は存在しないはず。
だから、先生のイメージの話を聞いて、「私にはピンと来ないなぁ。」という人もいるでしょうし、「悩みがサッと解決した。」という人もいるでしょう。
そして、大西先生が今、絶大な人気を誇っているのは、あのイメージを聞いて「ピンと来た」と思う人が多いということですよね。
逆に、かなりの英語力を持った人で、自分なりの確固たるイメージを掴んでいる人は、「私の感じ方と違う」と思われるのではないでしょうか?
でもそれはそれでいいのです。それがイメージというものだからです。
英語がわからない、と思っている人ほど、「いろんな人の意見をまずは素直に聞いてみる」ことが必要だと思います。
あらゆる人の解釈を聞いて、自分にピンと来る部分だけでも受け入れていけば、それだけでもかなりの力になると思います。
それを完全に自分のものにするには、やはり自分で英語に直接触れなければいけないと思いますが、ある程度、そういうイメージを確立してから臨む方が、恐怖感を抱かないで済むと思います。
スポーツを習うときに、理論的に良いフォームを研究したり、上手な人のアドバイスを受けたりするのと同じでしょうか。
何を始めるにしても、やみくもに始めると、ただ時間だけが過ぎていきます。
できるだけゴールからブレないように進むためには、そうやってイメージを固める必要があると思います。
その上で、自分にあったフォームに変えて行き、使えるアドバイスは使う、自分には合わないと思ったことは捨てる、を繰り返して、自分のものにしていけばいいんですね。
英語初心者の場合は、まず英語を見てイメージを掴むところまで行かないのが現状でしょう。
構文を読み取ろうと思うか、単語を調べようと思うかで、その文のイメージまではまず気が回らないですよね。
そういう人にとっては、「瞬間イメージ」を思い出すことで、パッとその文章のザッとしたイメージを思い浮かべることができるわけですから、とっつきやすいのです。
ある程度、自分でイメージが掴めるようになっている人は、「へぇ、大西先生はそんな風に見てるんだ!」という、違う人の視点を発見する気持ちで見るのも良いのではないかと思います。
そういう捉え方もあるんだなぁ、参考になるなぁ、という感じで。
何事も、学ぶ場合は、広い視野を持って、人の意見を素直に聞く心がけが必要だと思います。
できるだけ多くの考えに触れて、そこから自分の考えを固めていくことが大事です。
誰かの意見を聞いた時に、全面肯定する、あるいは、全面否定する、ということほど愚かなことはありません。
何がしかの真実を掴み取り、自分の知識を深めていくことこそ、大切ですよね。
ある程度の大人なら、取捨選択の能力も必要なのです。
何故、こんなお堅いことを書いてるのか我ながら不思議なんですけど、要は、あるものが一気に人気が出てくると、それをそっくりそのまま100%受け入れて批判に耳を貸さない人と、その揚げ足取りばかりして有効な部分すら見て見ぬふりをする人が大量に出現するからです。
(私も大西先生の話については「そっくりそのまま受け入れている」クチかもしれませんが、批判に対して感情的になるつもりはありません。)
人の理論が良いか悪いかは、受け止める人が判断すれば良いことです。
そして、相性というものもあるでしょうから、ある人には納得で、ある人には理解不可能ということも必ずあるわけなんですよね。
私は大西先生の話を聞いて、違和感は感じません。
多分、感性が似てるんでしょうね。
「ふーん、なるほど!」と思いながら毎回楽しく見ていますよ。
でも、違和感があるという人がいたとしても、それは理解できるつもりです。
それからもう一つ。
今回のブームで、ちょっと気になることを挙げるとすると、この大西先生の理論は、とっつきやすく簡単に見せていますが、実は「簡単」であることがポイントではないはずなんですよね。
でも、「昔習った、小難しい英文法に比べて簡単だから、理解しやすい。そうか、英語はこんなに簡単なんだ!あんな文法書は捨てちゃって、これだけやってればいいんでは?」みたいな印象をもし受けた人がいるとすれば、ちょっと問題なのではないかなぁ、と思ったり。
でも、大西先生ご自身が「ハートで感じる英文法」の本の帯に、このようなことを書いておられます。
英文法の「知識」はムダではない、それを「感覚」に転換すればよい。
だから、決して、いわゆる文法書はムダでも不必要でもないんです。
でも、「英語は難しいからわからない、勉強したくない。」と言う人がたくさんいるよりは、「簡単そうだから、ちょっとやってみよう。」と思う人が増えた方がいいのは、間違いないんですけどね。
たまには真面目なことも書こうと思ったけど、ちょっと違和感ありますかねぇ?(読んでて気分害された方がおられたらごめんなさい。)
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2006年01月26日
ハートで感じる英文法(その1)
英語ブロガーなら誰でも一度は記事にする(?)ご存知、大西泰斗先生&ポール・マクベイ先生の「ハートで感じる英文法」について、今日はじっくり語ってみたいと思います。
堂々と記事のタイトルに持ってきたのは今回が初めてですね。
こうしてアピールすることで、今まで私のブログを見たことなかった方に、ちょっと覗いてもらえるかも・・・という魂胆も、もちろんあります(笑)。
この番組と大西先生については、年末の記事
自分のブログを振り返る(その1)、自分のブログを振り返る(その2)
で少し書きました。
そのため、今日の記事も、それとかぶるところが多々ありますが、ご了承下さい。
年末の記事の時は、再放送の合計4回分を見ただけの感想でした。
それから、お正月の一挙再放送を見て、1月からの会話編はテキストも購入して見ています。
私はNHKの英語番組を決まって見ることはあまりしないタチで、TVがついていれば見るけど、毎週決まって見るのは今回が初めてです。
ましてやテキストを買ったのも初めて。
おまけに1月に入ってから、大西先生の本を2冊も買ってしまいました(笑)。
ハートで感じる英文法―NHK3か月トピック英会話 →ちょこちょこ飛ばし読みしました。
ネイティブスピーカーの英文法絶対基礎力 →まだちっとも読んでません。早く読まねば。
まあ、要するに典型的な”にわかファン”なわけですが、何故に私がここまで一気に先生の理論に魅かれたか、というようなことを、今日は書きますね。
共感した部分と、斬新だった部分
「英語をイメージで捉える」というのは、私のポリシーでもあります。
カテゴリー DVD学習法 で、私のDVD5段階活用法について説明していますが、DVDの音声と字幕(その3) の記事では、「イメージ」について以下のように語っています。
大事なことは、「ニュアンス」「イメージ」です。
英語を英語として理解する、ということは、英語のセリフを「日本語に置き換えるのではなく」、観念的にイメージで捉える、ということなのです。
大西先生の、「大切なのは、日本語訳ではなく、”感覚”や”イメージ”だ」というお話が、その私のポリシーに似ているのを感じて、共感を覚えたわけです。(一緒にすんなー!というお怒りの声も聞こえてきそうですが、厚かましくも自分では「似ている」と思ってて・・・笑)
その私にとって斬新だったのは、大西先生が、「過去形」「-ing形」あるいは構文などもイメージに置き換えることができる、と言われた点です。
ネイティブのスピードについていける理解度なら、そういう構文も実はどこかでイメージが出来ているものかもしれませんが、私はその部分を”はっきりと人に説明できるほどの確固たるイメージ”で認識したことはありませんでした。
過去形はやっぱり「・・・した」、-ing形は「・・・している」という和訳以上のものはなかったのです。
構文についても、単語の並び方とその構文の日本語訳をただ覚え、それが出てくる度に、その和訳に当てはめていたに過ぎない気がします。
後で述べますが、名詞、動詞、形容詞、前置詞・・・などは、自分の中で「日本語訳」ではなく、「イメージ」で置き換えていた、という自負があったのに、それを文法的な要素にまで広げていなかった自分に気が付いたんですね。
私は「ハートで感じる英語」を常に心がけていたつもりなのに、やはり英文法の部分については「ハートで感じていなかった」、だから、先生の説明を聞いて、「なるほど!」と大きく頷いてしまったのです。
つまり、どうしても決まった形や和訳に当てはめてしまいがちな英文法を、イメージで捉えるということの斬新さが、一番魅かれた理由なんですね。
イメージに置き換える利点
大西先生の番組を見て、私が面白い!と思ったのは、イメージを「しぐさ」「動作」「一言の言葉」に置き換えているところです。
会話編ではそれに加えて、「1枚の絵」も出てきましたね。
先生のお話がとっつきやすいと思うのは、そのイメージを「これ」とはっきり示す形で提示されているところです。
英語を学んでいると、ある程度、自分の中で漠然とした単語や構文のイメージを持ってくるものですが、いざそれを人に説明しようとすると、これが結構難しい。
説明はできるけど、結構長々と語らないと、伝わらない感じがします。
それを先生は、いったん「何らかの形で、瞬間的に思い浮かべることのできるイメージ」に言い換えてから、そのイメージを後からじっくり説明されていますよね。(”瞬間”と表現したのは、先生が言葉にしてもしぐさにしても、どれでも一瞬で表現できるものを選んでいる、ということです。)
その「瞬間イメージ置き換え」というのは、英語を日本語の言語に置き換えるより、数段上のレベルだと思います。
そして、会話編のあの「絵」もそのイメージをパッと思い浮かべる良いアイテムだと思うんですね。
例えば、会話編の if の話で、if と聞くと、受験英語をした人なら反射的に「もし・・・なら」(あるいは「・・・かどうか」)と答えると思うのですが、そうやって日本語訳を思い浮かべてからイメージするよりも、あの道路標識の絵をパッと思い出した方がスッと英語に入っていけると思います。
先生は主に日本人が苦手とする英文法でその手法を使われていますが、それは単語ひとつひとつについても言えることで、例えば cockroach という単語を見たときに、「ん? コックローチ?あぁ、ゴキブリ・・・ゴキブリかっ!」とタイムラグがあるよりも、cockroach と聞いた瞬間、あの姿をパッと思い出し、日本語のゴキブリという単語を思い出す前にゲッ!と驚く、みたいな瞬時の対応ができないと、いつまで経っても英語を聞いた瞬間に理解できるようにはならないんじゃないかと思うのです。
もう cockroach という単語を見ただけ、あるいは聞いただけで、背筋が寒くなる、くらいの反射神経(?)が必要なのではないかなぁ、と。
つまり、間に「言語としての日本語訳」を挟む余地をなくして、ダイレクトにイメージする、というポリシーが、私には非常に納得できるわけですね。
私が英語学習法として使っているDVDの字幕切り替えは、切り替えた日本語訳のニュアンスの感じを「文字としてではなく」「イメージで捉えて」英語のセリフを理解しよう、というものです。
(”英語のセリフを日本語訳のセリフとイコールで結んで一対一対応で暗記する”、のではありません。)
さらにDVDを使うと、映像を見てさらに理解を深めることができる、という利点もあります。
その英語が話された場面の状況(緊迫しているか、リラックスムードか)や、本人の口調(きつい調子か柔らかい調子か)、本人の表情(怒っているか、笑っているか)などのたくさんの情報から、そのセリフの意味する全体のイメージを掴むことができます。
ただ、そのイメージというのは、なかなか口では説明しにくくて、もうDVDのその場面を見て感じ取って下さい、としか言えないんですよね。
ですから、大西先生が「このイメージはこれだ!」とはっきり名言されていることが、潔いし、受け入れやすいと感じるわけです。
以下は、自分の学習法の宣伝みたいになりますが・・・。
DVDを使って映像を見ることで、動詞や前置詞のイメージを掴みやすくなるという利点があります。
動詞は、その動詞が使われた状況、その人物が行った動作、しぐさを観察することで、その基本的なニュアンスを理解できます。
簡単な単語(get や take や put など)であればあるほど、いろんな場面で、いろんな意味に派生して使われているのに気付くことも出来ます。
文字だけ見ていれば何通りにも解釈できそうな簡単な単語でも、特定の状況では、常識的に判断するだけで特定の意味に限定され、双方誤解なく話が進んでいくのですね。
またよく動詞と一緒になってイディオムを形成する前置詞は、方向、位置関係などいろんなことを示す単語ですが、それもどんな動詞と使われて、どういう動作になっているかを見ることで、自ずとその前置詞そのもののイメージも確立してくると思います。
わー、またまた長くなっちゃった。(ここのところ、長い文章が続いて、皆さんもげんなりですよね。ごめんなさい。)
でも、もう少し言いたいことが・・・。
明日も続いて書きます。
(Rachからのお願い)
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堂々と記事のタイトルに持ってきたのは今回が初めてですね。
こうしてアピールすることで、今まで私のブログを見たことなかった方に、ちょっと覗いてもらえるかも・・・という魂胆も、もちろんあります(笑)。
この番組と大西先生については、年末の記事
自分のブログを振り返る(その1)、自分のブログを振り返る(その2)
で少し書きました。
そのため、今日の記事も、それとかぶるところが多々ありますが、ご了承下さい。
年末の記事の時は、再放送の合計4回分を見ただけの感想でした。
それから、お正月の一挙再放送を見て、1月からの会話編はテキストも購入して見ています。
私はNHKの英語番組を決まって見ることはあまりしないタチで、TVがついていれば見るけど、毎週決まって見るのは今回が初めてです。
ましてやテキストを買ったのも初めて。
おまけに1月に入ってから、大西先生の本を2冊も買ってしまいました(笑)。
ハートで感じる英文法―NHK3か月トピック英会話 →ちょこちょこ飛ばし読みしました。
ネイティブスピーカーの英文法絶対基礎力 →まだちっとも読んでません。早く読まねば。
まあ、要するに典型的な”にわかファン”なわけですが、何故に私がここまで一気に先生の理論に魅かれたか、というようなことを、今日は書きますね。
共感した部分と、斬新だった部分
「英語をイメージで捉える」というのは、私のポリシーでもあります。
カテゴリー DVD学習法 で、私のDVD5段階活用法について説明していますが、DVDの音声と字幕(その3) の記事では、「イメージ」について以下のように語っています。
大事なことは、「ニュアンス」「イメージ」です。
英語を英語として理解する、ということは、英語のセリフを「日本語に置き換えるのではなく」、観念的にイメージで捉える、ということなのです。
大西先生の、「大切なのは、日本語訳ではなく、”感覚”や”イメージ”だ」というお話が、その私のポリシーに似ているのを感じて、共感を覚えたわけです。(一緒にすんなー!というお怒りの声も聞こえてきそうですが、厚かましくも自分では「似ている」と思ってて・・・笑)
その私にとって斬新だったのは、大西先生が、「過去形」「-ing形」あるいは構文などもイメージに置き換えることができる、と言われた点です。
ネイティブのスピードについていける理解度なら、そういう構文も実はどこかでイメージが出来ているものかもしれませんが、私はその部分を”はっきりと人に説明できるほどの確固たるイメージ”で認識したことはありませんでした。
過去形はやっぱり「・・・した」、-ing形は「・・・している」という和訳以上のものはなかったのです。
構文についても、単語の並び方とその構文の日本語訳をただ覚え、それが出てくる度に、その和訳に当てはめていたに過ぎない気がします。
後で述べますが、名詞、動詞、形容詞、前置詞・・・などは、自分の中で「日本語訳」ではなく、「イメージ」で置き換えていた、という自負があったのに、それを文法的な要素にまで広げていなかった自分に気が付いたんですね。
私は「ハートで感じる英語」を常に心がけていたつもりなのに、やはり英文法の部分については「ハートで感じていなかった」、だから、先生の説明を聞いて、「なるほど!」と大きく頷いてしまったのです。
つまり、どうしても決まった形や和訳に当てはめてしまいがちな英文法を、イメージで捉えるということの斬新さが、一番魅かれた理由なんですね。
イメージに置き換える利点
大西先生の番組を見て、私が面白い!と思ったのは、イメージを「しぐさ」「動作」「一言の言葉」に置き換えているところです。
会話編ではそれに加えて、「1枚の絵」も出てきましたね。
先生のお話がとっつきやすいと思うのは、そのイメージを「これ」とはっきり示す形で提示されているところです。
英語を学んでいると、ある程度、自分の中で漠然とした単語や構文のイメージを持ってくるものですが、いざそれを人に説明しようとすると、これが結構難しい。
説明はできるけど、結構長々と語らないと、伝わらない感じがします。
それを先生は、いったん「何らかの形で、瞬間的に思い浮かべることのできるイメージ」に言い換えてから、そのイメージを後からじっくり説明されていますよね。(”瞬間”と表現したのは、先生が言葉にしてもしぐさにしても、どれでも一瞬で表現できるものを選んでいる、ということです。)
その「瞬間イメージ置き換え」というのは、英語を日本語の言語に置き換えるより、数段上のレベルだと思います。
そして、会話編のあの「絵」もそのイメージをパッと思い浮かべる良いアイテムだと思うんですね。
例えば、会話編の if の話で、if と聞くと、受験英語をした人なら反射的に「もし・・・なら」(あるいは「・・・かどうか」)と答えると思うのですが、そうやって日本語訳を思い浮かべてからイメージするよりも、あの道路標識の絵をパッと思い出した方がスッと英語に入っていけると思います。
先生は主に日本人が苦手とする英文法でその手法を使われていますが、それは単語ひとつひとつについても言えることで、例えば cockroach という単語を見たときに、「ん? コックローチ?あぁ、ゴキブリ・・・ゴキブリかっ!」とタイムラグがあるよりも、cockroach と聞いた瞬間、あの姿をパッと思い出し、日本語のゴキブリという単語を思い出す前にゲッ!と驚く、みたいな瞬時の対応ができないと、いつまで経っても英語を聞いた瞬間に理解できるようにはならないんじゃないかと思うのです。
もう cockroach という単語を見ただけ、あるいは聞いただけで、背筋が寒くなる、くらいの反射神経(?)が必要なのではないかなぁ、と。
つまり、間に「言語としての日本語訳」を挟む余地をなくして、ダイレクトにイメージする、というポリシーが、私には非常に納得できるわけですね。
私が英語学習法として使っているDVDの字幕切り替えは、切り替えた日本語訳のニュアンスの感じを「文字としてではなく」「イメージで捉えて」英語のセリフを理解しよう、というものです。
(”英語のセリフを日本語訳のセリフとイコールで結んで一対一対応で暗記する”、のではありません。)
さらにDVDを使うと、映像を見てさらに理解を深めることができる、という利点もあります。
その英語が話された場面の状況(緊迫しているか、リラックスムードか)や、本人の口調(きつい調子か柔らかい調子か)、本人の表情(怒っているか、笑っているか)などのたくさんの情報から、そのセリフの意味する全体のイメージを掴むことができます。
ただ、そのイメージというのは、なかなか口では説明しにくくて、もうDVDのその場面を見て感じ取って下さい、としか言えないんですよね。
ですから、大西先生が「このイメージはこれだ!」とはっきり名言されていることが、潔いし、受け入れやすいと感じるわけです。
以下は、自分の学習法の宣伝みたいになりますが・・・。
DVDを使って映像を見ることで、動詞や前置詞のイメージを掴みやすくなるという利点があります。
動詞は、その動詞が使われた状況、その人物が行った動作、しぐさを観察することで、その基本的なニュアンスを理解できます。
簡単な単語(get や take や put など)であればあるほど、いろんな場面で、いろんな意味に派生して使われているのに気付くことも出来ます。
文字だけ見ていれば何通りにも解釈できそうな簡単な単語でも、特定の状況では、常識的に判断するだけで特定の意味に限定され、双方誤解なく話が進んでいくのですね。
またよく動詞と一緒になってイディオムを形成する前置詞は、方向、位置関係などいろんなことを示す単語ですが、それもどんな動詞と使われて、どういう動作になっているかを見ることで、自ずとその前置詞そのもののイメージも確立してくると思います。
わー、またまた長くなっちゃった。(ここのところ、長い文章が続いて、皆さんもげんなりですよね。ごめんなさい。)
でも、もう少し言いたいことが・・・。
明日も続いて書きます。
(Rachからのお願い)
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2006年01月25日
知覚動詞seeの完了形(その2)
昨日の続きです。
過去の記事では、私の解釈が二転三転した結果、解釈の正しさを証明するのに、「継続ではないこと」を証明することにやっきになっていた感がありました。
だいたい、私は不可能であることから潰していって、残ったものが正しい答えだ、という導き方をすることが多いです。つまり「消去法」。
文法的にダメだから、などの不可能である理由を探すのに夢中になってしまうんですね。
ですが、英語はあくまでも人の気持ちを表す言葉。
もちろん文法的におかしいものはやはりおかしい文章なんでしょう。
でも、ネイティブは「普通はそんな言い方はしないよなぁ」と思えば、それがいくら文法的には可能な文章でも、やはり不自然な表現になってしまうんですね。
昨日、悩んだ「視覚に映る」意味で、継続か可能かどうかに、何故私がそこまでこだわったかについて、ちょっと書きたいと思います。
1.私が 動詞 see を「継続の概念と相容れない(継続として使うにはふさわしくない)」と考えた理由
過去の記事では、現在完了形の文法や、使われている see という動詞の性質から、このセリフが継続ではないかを証明(笑)しようとしたのですが、その証明にやっきになって、だんだん視野が狭くなり、極論を述べた気がします。(だいたい、私は調べ物をしていくうちに、視野が狭くなる傾向にありますね。反省しております・・・)
まず、「経験」だと思うのが自然だという理由は、昨日も書きましたが、
Have you ever seen...? (・・・を見たことありますか?)
I have never seen... (・・・を今まで見たことがない)
というのが「経験」の典型的な例だからです。
つまり、see という動詞が「経験」として使うのにふさわしい単語であり、だからそれを「継続」として考えるには、それなりの強い理由が必要だろう、ということです。(例えば、「期間」を表す副詞句がある、など)
それから、大西洋横断飛行で有名なチャールズ・リンドバーグの残したこんな言葉もあります。
I have seen the science I worshipped and the aircraft I loved
destroying the civilization I expected them to serve.
これは「have seen+目的語(the science I worshipped and the aircraft I loved)+現在分詞(destroying)」の知覚構文です。
これをそれらしい日本語に訳すとすると、「私が崇拝した科学、そして私が愛した飛行機が、私がその2つが奉仕することを期待していた文明を壊すところを、私は見てきた。」という感じでしょうか?
名言なのに(なので?)何とも回りくどいですが(日本語に直すから、なおさら回りくどいとも言える)、この「見てきた」と訳してしまった部分は、本当のところはどういう状況を指しているんでしょう。
これも訳すことの弊害と言えますが、「見てきた」というと、「ずーっと見てきた」それから「ずーっと見ていた」に通じるところがあるので、一瞬「継続」のニュアンスだろうか?と思ってしまうのですが、この文章から判断すると、科学や飛行機が文明を「まさに壊している」さまをずっと長い間「継続」して見ていた、というのはやはり変な気がします。
ここはやはり、「壊すさまを見た」という「経験」をこれまでしてきた、と理解すべきでしょうね。
だから、日本語の「見てきた」というのは、「見たという経験をこれまでしてきた」という意味なわけです。
実は辞書を調べると、see には「・・・を経験する、・・・に遭遇する」という意味があり、現在完了形を使った経験の例文がいくつか載っています。
このように「経験する」との訳語があることからも、基本的には「経験」のイメージが強い単語なのだと言えると思います。
それから、同じように「見る」と訳される動詞 watch との使い分けを見ると、ますます「継続」のニュアンスが出しにくい単語なのではと思うようになりました。
see と watch と look の違い、はよく引き合いに出されますよね。
「ハートで感じる英文法」の大西先生も、その違いを説明されています。
あの「ハートで感じる英文法」冬休みスペシャルは、もともと12回シリーズだった中から8回分を選んで放映したそうですね。
その省かれた中に、「英単語もイメージだ」という回があり、そこで look, see, watch のイメージの違いを説明されたようです。
私は年末に先生のファンになってから、さっそく
ハートで感じる英文法 大西泰斗/ポール・マクベイ著
を購入して、その再放送されなかった部分を読んでみました。
あまり詳しく書くのは避けますが(これから読む方の楽しみが減るので)、see のポイントは
「向こうから入ってくる」という感触だそうです。
look は「目をやる、視線を向ける」、watch は「じっと見る、観察する」と辞書にあることからわかるように”自発的行為”ですが、see はそうではなくて、「目に映る」という、非常に”受身な”印象を受けます。
もちろん、英英辞典に notice/examine とあるように、それを受け入れるだけではなく、その後、吟味するわけですが、目を使った行為としては、look や watch に比べて、受身だということですね。
さきほど、リンドバーグの例に出した「経験する」というニュアンスも、「向こうからやってくるものを受け入れる」という see の基本的イメージを展開したものと言えるそうです。
ここでは look は省略して、see と watch の使い方を比較したいと思います。
ざくっとした訳で言うと、see は「(単に)ものが見えること」、watch は「動いているものを注意して見る、という自発的行為」を指すので、その差から、次のようなことが言えますね。
「テレビを見る」という場合、
I’ve been watching TV for two hours. とは言うが、
I’ve seen TV for two hours. とは言わない。
(ここで watch の文章が「現在完了進行形」になっているので、単純に比較はしにくいですが、基本的な意味は have watched と同じ。
あえて言うと、普通の完了形は行為について語り、それが進行形になると動作を強調することになる、という感じ。)
また、「映画を見る」という場合、
I'm going to see a movie. (私は映画を見に行くつもりだ。)
これは、映画館に出かけて映画を見るという「経験」を指します。
I'm watching a movie in a theater. (私は映画館で映画を見ている。)
これは物理的にスクリーンをずっと見ていることを指します。
このような意味の違いから、see は一瞬でその行為が済んでしまうような感覚を、”私個人は”持っているのです。(これが正しい認識かどうかはわかりません。)
なお、この感覚は、hear と listen の使い分けにも通じます。
そして、同じように hear も Have you ever heard...? (・・・を聞いたことある?)と経験の文章でよく出てきますよね。
2.文法書の解釈を文字通りにとると・・・
手元の文法書には以下の通りに書いてあります。
現在完了形の継続の形は、
「状態動詞」や、live, walk, work などの持続的な動作を表す動詞と共に用いられる。
そして、状態動詞というのは以下の3つに分けられる。
精神活動を表す動詞 think, hope, love
知覚動詞 see, smell, hear, feel
関係動詞 belong, have, own
これを文字通りに解釈すると
「状態動詞の一種である知覚動詞に属する see は、現在完了形の継続の形で用いることができる」
と解釈されることになります。
つまり、私が「継続で使えない」と思ったことは、文法上の根拠は何もないわけですね。(ガーン!)
(念のために書いておきますと、文法書というのはあくまで大きな分類を示したものだと思うので、必ず例外はある、ということは自分でもわかっています。
ですが、この場合は、「一般的に使える」と書いてあるので、素直に捉えると、「使える」としか解釈しようがないのです。)
ですから、1.で書いたような感覚も何となくわかっていただけるかとは思うのですが、私が「see は継続としては使えない」と思った根拠は、その”感覚”のみ。
やはりどこにも「see は継続としては使えない」とは書いてないので、「使える」とみなす方が自然でしょう。
「使えない」と書いた私の記事が、私のひとりよがりな意見だったということです。
現時点での私の見解は
see は経験のニュアンスで使われることが非常に多いが、
「見なす」などの意味では継続として使われることも可能。
また、その他の意味でも、「継続として使用不可」とは断言できない。
ちなみに、ある方から、I've seen him for years. は、I've known him for years. と同じことだ、というご指摘を受けました。
日本語でも、「彼を長い間、見てきたけど・・・」などと言いますが、それと同じ感じのようです。
つまり長い間の知り合い、ってことですよね。
seen = known だと言うことは、「視覚に映る」という感覚を発展させて、
ずっと情報として目から頭に入ってきていた→知っていた、
という流れになるようです。
このように「視覚に映る」から派生した意味の広がりが継続の意味を持つわけですから、やはり see は仮に「視覚に映る」に限定したとしても、継続のニュアンスは可能なのだと言えるでしょう。
ところで、何回にも渡って、完了形とその解釈を繰り広げてきましたが、実はこのセリフの解釈、「継続か経験か、そんなのどっちでもいいじゃん!」
と言われればその通り。
とにかくレイチェルの欠点として、ルックス気にしすぎ、なところを挙げているんですね。
継続か経験かで、意味が正反対になるわけではありません。
でも、She is into.. 「彼女は・・・だ」と客観的事実を述べるのではなくて、わざわざ I've seen her be... という表現を使ったのは何故かなぁ?
ロスはどういうことを思い浮かべてこのセリフを言ったのかなぁ?と、ふと思ったんですよね。
「プロムの時、そうだったよな。」とあるひとつの過去の記憶を思い出しているのか、「そういえば、初めて会った時もそうだった、プロムの時も、再会したときも・・・」と複数の出来事を思い出しているのか、または、いつ見てもいつ見てもそんな感じだったと言っているのか?
つまり、「ずっと感」か、そういうことがあったよという「思い出話風」か?
大差ないのは承知の上で、いろいろとこだわってみました。
ここまで読んで下さった方、私のちょっとしたこだわりにお付き合い下さって、本当にありがとうございました。
「他人の考えてることは、よーわからん」的な支離滅裂な文章で、申し訳ありませんでした。
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過去の記事では、私の解釈が二転三転した結果、解釈の正しさを証明するのに、「継続ではないこと」を証明することにやっきになっていた感がありました。
だいたい、私は不可能であることから潰していって、残ったものが正しい答えだ、という導き方をすることが多いです。つまり「消去法」。
文法的にダメだから、などの不可能である理由を探すのに夢中になってしまうんですね。
ですが、英語はあくまでも人の気持ちを表す言葉。
もちろん文法的におかしいものはやはりおかしい文章なんでしょう。
でも、ネイティブは「普通はそんな言い方はしないよなぁ」と思えば、それがいくら文法的には可能な文章でも、やはり不自然な表現になってしまうんですね。
昨日、悩んだ「視覚に映る」意味で、継続か可能かどうかに、何故私がそこまでこだわったかについて、ちょっと書きたいと思います。
1.私が 動詞 see を「継続の概念と相容れない(継続として使うにはふさわしくない)」と考えた理由
過去の記事では、現在完了形の文法や、使われている see という動詞の性質から、このセリフが継続ではないかを証明(笑)しようとしたのですが、その証明にやっきになって、だんだん視野が狭くなり、極論を述べた気がします。(だいたい、私は調べ物をしていくうちに、視野が狭くなる傾向にありますね。反省しております・・・)
まず、「経験」だと思うのが自然だという理由は、昨日も書きましたが、
Have you ever seen...? (・・・を見たことありますか?)
I have never seen... (・・・を今まで見たことがない)
というのが「経験」の典型的な例だからです。
つまり、see という動詞が「経験」として使うのにふさわしい単語であり、だからそれを「継続」として考えるには、それなりの強い理由が必要だろう、ということです。(例えば、「期間」を表す副詞句がある、など)
それから、大西洋横断飛行で有名なチャールズ・リンドバーグの残したこんな言葉もあります。
I have seen the science I worshipped and the aircraft I loved
destroying the civilization I expected them to serve.
これは「have seen+目的語(the science I worshipped and the aircraft I loved)+現在分詞(destroying)」の知覚構文です。
これをそれらしい日本語に訳すとすると、「私が崇拝した科学、そして私が愛した飛行機が、私がその2つが奉仕することを期待していた文明を壊すところを、私は見てきた。」という感じでしょうか?
名言なのに(なので?)何とも回りくどいですが(日本語に直すから、なおさら回りくどいとも言える)、この「見てきた」と訳してしまった部分は、本当のところはどういう状況を指しているんでしょう。
これも訳すことの弊害と言えますが、「見てきた」というと、「ずーっと見てきた」それから「ずーっと見ていた」に通じるところがあるので、一瞬「継続」のニュアンスだろうか?と思ってしまうのですが、この文章から判断すると、科学や飛行機が文明を「まさに壊している」さまをずっと長い間「継続」して見ていた、というのはやはり変な気がします。
ここはやはり、「壊すさまを見た」という「経験」をこれまでしてきた、と理解すべきでしょうね。
だから、日本語の「見てきた」というのは、「見たという経験をこれまでしてきた」という意味なわけです。
実は辞書を調べると、see には「・・・を経験する、・・・に遭遇する」という意味があり、現在完了形を使った経験の例文がいくつか載っています。
このように「経験する」との訳語があることからも、基本的には「経験」のイメージが強い単語なのだと言えると思います。
それから、同じように「見る」と訳される動詞 watch との使い分けを見ると、ますます「継続」のニュアンスが出しにくい単語なのではと思うようになりました。
see と watch と look の違い、はよく引き合いに出されますよね。
「ハートで感じる英文法」の大西先生も、その違いを説明されています。
あの「ハートで感じる英文法」冬休みスペシャルは、もともと12回シリーズだった中から8回分を選んで放映したそうですね。
その省かれた中に、「英単語もイメージだ」という回があり、そこで look, see, watch のイメージの違いを説明されたようです。
私は年末に先生のファンになってから、さっそく
ハートで感じる英文法 大西泰斗/ポール・マクベイ著
を購入して、その再放送されなかった部分を読んでみました。
あまり詳しく書くのは避けますが(これから読む方の楽しみが減るので)、see のポイントは
「向こうから入ってくる」という感触だそうです。
look は「目をやる、視線を向ける」、watch は「じっと見る、観察する」と辞書にあることからわかるように”自発的行為”ですが、see はそうではなくて、「目に映る」という、非常に”受身な”印象を受けます。
もちろん、英英辞典に notice/examine とあるように、それを受け入れるだけではなく、その後、吟味するわけですが、目を使った行為としては、look や watch に比べて、受身だということですね。
さきほど、リンドバーグの例に出した「経験する」というニュアンスも、「向こうからやってくるものを受け入れる」という see の基本的イメージを展開したものと言えるそうです。
ここでは look は省略して、see と watch の使い方を比較したいと思います。
ざくっとした訳で言うと、see は「(単に)ものが見えること」、watch は「動いているものを注意して見る、という自発的行為」を指すので、その差から、次のようなことが言えますね。
「テレビを見る」という場合、
I’ve been watching TV for two hours. とは言うが、
I’ve seen TV for two hours. とは言わない。
(ここで watch の文章が「現在完了進行形」になっているので、単純に比較はしにくいですが、基本的な意味は have watched と同じ。
あえて言うと、普通の完了形は行為について語り、それが進行形になると動作を強調することになる、という感じ。)
また、「映画を見る」という場合、
I'm going to see a movie. (私は映画を見に行くつもりだ。)
これは、映画館に出かけて映画を見るという「経験」を指します。
I'm watching a movie in a theater. (私は映画館で映画を見ている。)
これは物理的にスクリーンをずっと見ていることを指します。
このような意味の違いから、see は一瞬でその行為が済んでしまうような感覚を、”私個人は”持っているのです。(これが正しい認識かどうかはわかりません。)
なお、この感覚は、hear と listen の使い分けにも通じます。
そして、同じように hear も Have you ever heard...? (・・・を聞いたことある?)と経験の文章でよく出てきますよね。
2.文法書の解釈を文字通りにとると・・・
手元の文法書には以下の通りに書いてあります。
現在完了形の継続の形は、
「状態動詞」や、live, walk, work などの持続的な動作を表す動詞と共に用いられる。
そして、状態動詞というのは以下の3つに分けられる。
精神活動を表す動詞 think, hope, love
知覚動詞 see, smell, hear, feel
関係動詞 belong, have, own
これを文字通りに解釈すると
「状態動詞の一種である知覚動詞に属する see は、現在完了形の継続の形で用いることができる」
と解釈されることになります。
つまり、私が「継続で使えない」と思ったことは、文法上の根拠は何もないわけですね。(ガーン!)
(念のために書いておきますと、文法書というのはあくまで大きな分類を示したものだと思うので、必ず例外はある、ということは自分でもわかっています。
ですが、この場合は、「一般的に使える」と書いてあるので、素直に捉えると、「使える」としか解釈しようがないのです。)
ですから、1.で書いたような感覚も何となくわかっていただけるかとは思うのですが、私が「see は継続としては使えない」と思った根拠は、その”感覚”のみ。
やはりどこにも「see は継続としては使えない」とは書いてないので、「使える」とみなす方が自然でしょう。
「使えない」と書いた私の記事が、私のひとりよがりな意見だったということです。
現時点での私の見解は
see は経験のニュアンスで使われることが非常に多いが、
「見なす」などの意味では継続として使われることも可能。
また、その他の意味でも、「継続として使用不可」とは断言できない。
ちなみに、ある方から、I've seen him for years. は、I've known him for years. と同じことだ、というご指摘を受けました。
日本語でも、「彼を長い間、見てきたけど・・・」などと言いますが、それと同じ感じのようです。
つまり長い間の知り合い、ってことですよね。
seen = known だと言うことは、「視覚に映る」という感覚を発展させて、
ずっと情報として目から頭に入ってきていた→知っていた、
という流れになるようです。
このように「視覚に映る」から派生した意味の広がりが継続の意味を持つわけですから、やはり see は仮に「視覚に映る」に限定したとしても、継続のニュアンスは可能なのだと言えるでしょう。
ところで、何回にも渡って、完了形とその解釈を繰り広げてきましたが、実はこのセリフの解釈、「継続か経験か、そんなのどっちでもいいじゃん!」
と言われればその通り。
とにかくレイチェルの欠点として、ルックス気にしすぎ、なところを挙げているんですね。
継続か経験かで、意味が正反対になるわけではありません。
でも、She is into.. 「彼女は・・・だ」と客観的事実を述べるのではなくて、わざわざ I've seen her be... という表現を使ったのは何故かなぁ?
ロスはどういうことを思い浮かべてこのセリフを言ったのかなぁ?と、ふと思ったんですよね。
「プロムの時、そうだったよな。」とあるひとつの過去の記憶を思い出しているのか、「そういえば、初めて会った時もそうだった、プロムの時も、再会したときも・・・」と複数の出来事を思い出しているのか、または、いつ見てもいつ見てもそんな感じだったと言っているのか?
つまり、「ずっと感」か、そういうことがあったよという「思い出話風」か?
大差ないのは承知の上で、いろいろとこだわってみました。
ここまで読んで下さった方、私のちょっとしたこだわりにお付き合い下さって、本当にありがとうございました。
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2006年01月24日
知覚動詞seeの完了形(その1)
みたび、完了形-完結編 で記事を終える予定だったのですが、 パパが英語に目覚めたら のハルさんより興味深いご意見をいただきました。
それを読ませていただいて、いろいろ考えているうちに、もう一度、最後に自分の考えをまとめたいと思うようになりました。
そこで、ハルさんのご意見とそれに対する私の考えを書きます。
主に see という動詞についての話です。
この手の話に興味のない方には、本当に申し訳ありません。
でも、自分としては、たまにこういうことで延々悩むのが楽しかったりするのです(笑)。
ランキング下がるのを覚悟の上で書いてます(!?)
これまでの経緯をお話しますと、
そもそもは、ロスのセリフ、
ロス: And I've seen her be a little too into her looks.
が継続か経験か、という話でした。
いろいろ悩んでこれは「経験」で、私なりに日本語訳をつけるとすると、
「レイチェルが自分のルックスをちょっと気にしすぎる、ってところを見たことがあるよ。」
「レイチェルには自分のルックスをちょっと気にしすぎるところがあるよ[あったよ]。」
みたいになるかなぁ、と結論づけました。
さらに、完了形、ふたたび の記事で、私は「see という単語は”ものが見える、視覚に映る”という意味だから、”ずっと続く継続”の概念とは共存できない単語に思える。」と書いたのですが・・・。
その「see が継続の概念と相容れない」という意見に対して、非公開コメントでハルさんより興味深いご意見をいただきました。
何度かこの件についてやり取りした「二人の初めての共同作業」の結果(!?)は以下のようになります。
(実際は、ハルさんが全部調べて下さいました。それから、あまりおフザケが過ぎると、ハルさんの奥様とお嬢様に申し訳ないので、この辺でやめときます・・・笑)。
その1
see には「視覚に映る」以外にも「みなす」「付き合う」などの意味がある。
Google のフレーズ検索で、"I've seen him for" や "I've seen him since" と期間を表す表現をつけて検索すると、相当数ヒットするし、それは内容から継続として使われていることもわかったので、see は「継続の概念と相容れない動詞」だとは言えない。
その2
また、「視覚に映る」意味での継続があり得るかどうかは現時点ではわからない。
その3
I have seen her be selfish.
I have seen her as a selfish girl.
という二つの文をネイティブの先生に見せてみた結果は、(ハルさんのプライベート・レッスンの先生は、ネイティブなんですよね!)
この二つの文は同じ意味で、どちらも「experience(経験)」を意味するとのこと。
「I have seen her ... for years」とした場合は「duration(継続)」を意味するようだが、このような「for」や「since」がない場合、「have seen」は「経験」というのが、彼らの直感的な印象のようだ。
ということでした。
まず、その1について。
実は、前の記事の時に、私はフレーズ検索で用例を調べることをしませんでした。
ちょっと文法に偏りすぎて、文法書や解説書ばかりひっくり返して、実際に使われている用例に当たってみることを私は忘れておりました。
実際、フレーズ検索で継続として使われているものが出ているのなら、see という単語が継続として使用可能なのは間違いないでしょう。
もちろん、ネット上にある英文全てが正しいとは言えないのですが、「相当数」ヒットするということであれば、通常使用されている形だと思って良いと思います。
ということで、過去の記事に書いた「see は継続とは相容れない動詞だ」という私の意見を、ここで謹んで撤回いたします。
紛らわしいことを書いて、本当に申し訳ありませんでした。
(前回の記事では私は「see = 視覚に映る」という観点からしか見ていなかったのが、そもそも問題なんですね。)
その2については、後で書きます。
その3については、これは私も後から気が付いたんですが、最初の私に欠けていたのは、
「まず、先入観を捨てて、セリフを眺める。」
という姿勢でした。
ロス: I've seen her be a little too into her looks.
先入観なくこの文章を見たときに、I have seen という形を見て、現在完了形の
Have you ever seen...?(・・・を見たことありますか?) や、
I have never seen... (・・・を今まで見たことがない)
という「経験」の典型的な例を思い出して、経験だと捉えるのが一番素直なのかも、と今になって思います。
また言い訳みたいになりますが、最初の解釈で、どうして、「ずっと」という継続のニュアンスを私が感じてしまったかというと、ロスがレイチェルのことを語る時に必ずセットのように出てくる話が、ロスがレイチェルに「ずっと片思い」していた、ということ。
例えば、フレンズ1-24その6 のセリフ、
ロス: I've been in love with you since the ninth grade. (高校の時から君のことがずっと好きだった。)
などは典型的な例ですよね。
でも、よく考えてみると、「ずっと」のニュアンスを出したければ、上のように since the ninth grade とか、for a long time とか、そういう副詞句がつくのが自然です。
また、「何回も見たよ」と言うつもりだったら、often 「何回も」などの頻度を表す表現を入れるかもしれません。
言葉のイメージを強めるために、ネイティブはそういう副詞句を頻繁に使うような気がします。
例えば、何回もあったことを言うときに、"again and again and again" などしつこいくらい強調したりしますが、あれで感情を込めている、という部分もありますよね。
そう考えてからこのセリフを見ると、「長い期間」を示唆したフレーズがない、そして「頻度が多い」という表現もない、だから、「何回も」というほどでもなく「かつてそんなところを見た」という程度の、ある過去におけるエピソード的ニュアンスだと捉えるのが自然な気がしてきました。
結局、「期間」や「頻度」のどちらかを表す表現がないのだから、そこからどちらと決めるのも危険ですが、どちらがないと不自然かというと、”「ずっと」というニュアンスで期間を表す表現がない方が不自然”だと思えます。
ということで、先入観なく見た場合、このセリフは見かけ上は、「経験」と見なしやすい、と思います。
ハルさんのネイティブの先生の捉え方も、「for」や「since」がない場合は「経験」だと直感的に感じる、というのもまさにそのことですよね。
そして、今はその2のことで悩んでいます。
ハルさんに倣って、私もいろいろと Google 検索してみると、いくつか気になる表現が出てきました。(ただし、以下の文章は大量にヒットしたのではないので、間違った表現の可能性もある)
まず、I've seen him for years. という文章がヒットしました。
ハルさんが辞書で発見されたという They've seen each other for a long time. (二人は長く付き合っている。)と同じで、「彼と長年お付き合いしてきた」とも取れますが、もしかしたら「長年彼を見てきた」という「見る」意味だという可能性はないんでしょうか?
何故、素直に「付き合う」だと納得できないかというと、「付き合う」という意味で使う場合は、I'm seeing him. と現在進行形で使う場合が多いので、進行形ではない場合、「付き合う」ではない可能性もあるのでは?と思うのです。
また、以下のような文も発見しました。(発見した文章をちょっと変えてますが)
"I've seen him for the last five years. But I've never seen him like this."
これは「私はこの5年間ずっと彼を見てきたけど、こんな様子の彼は見たことがない。」という、日本語でもよくわかるニュアンスの文章になりそう。
もしそういう意味だと、まさに「継続」と「経験」を、どちらも have seen で表現していることになりますよね。
これもまた、 see は「付き合う」という行為を指しているから「継続」可能なんだ、とも言えるかもしれませんが。
もし、上の文章での see が「視覚に映る」という意味で、なおかつネイティブにとって自然な文章だとすると、「視覚に映る」という意味でも、継続は可能なのかもしれません。
もしかしたら、「じぃーっと観察してる」んではなく、「ずっと姿が見えていた、目に映っていた」あるいは「見守っていた」という感覚は継続と相容れるものなのかもしれません。
see 「視覚に映る、見る」の意味でも継続が可能かもしれない!?
のでしょうか?
もうこの辺りになってくると、正直、私にはお手上げです。
結局は、「継続」か「経験」か、という分類の話ではなく、「文法的にそれが可能か不可能か」という話でもなく、継続の形や経験の形にしてネイティブが自然に感じるか、が大事なポイントなわけですね。
ここでは「ハートで感じる英文法」方式で(笑)、ポール・マクベイ先生にフリップ(・・・って言うんでしたっけ? あのボード)を持っていただいて、街行くネイティブに聞いていただきたいところです。
フリップその1
I've seen him be selfish for ten years.
で違和感がないか?
なぜ、この構文を使ったかというと、これが「視覚に映る」という意味で一番使われる形だと思ったからです。
「see(hear)+目的語+動詞の原形(または現在分詞)」は、知覚動詞を用いているため、「知覚構文」と呼ばれますよね。
ちょうど、1月19日放送の「ハートで感じる英文法」のメインテーマだったので、タイムリーな話題でもあります。
この知覚構文で、継続の意味を持たせることができれば、「視覚に映る」でも継続は可能、ということになりますよね。
フリップその2
I've seen him for the last five years. But I've never seen him like this.
で違和感がないか? 最初の継続に使われている see は 「notice/examine, using your eyes」の意味の「視覚に映る」か、もしくは「付き合う」という意味に理解されてしまうのか?
などなど・・・。
実際のネイティブの感覚を聞いてみたいところですね?(ハルさんの先生は今お忙しいらしくて・・・一応、聞いていただくようにお願いしてあります・・・笑)
明日は、この「知覚動詞 see が完了形継続として使えるか?」に何故私がここまでこだわったのか、について語ってみたいと思います。
(ここまでこのネタを引っ張った言い訳みたいなものですが・・・笑)
(Rachからのお願い)
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それを読ませていただいて、いろいろ考えているうちに、もう一度、最後に自分の考えをまとめたいと思うようになりました。
そこで、ハルさんのご意見とそれに対する私の考えを書きます。
主に see という動詞についての話です。
この手の話に興味のない方には、本当に申し訳ありません。
でも、自分としては、たまにこういうことで延々悩むのが楽しかったりするのです(笑)。
ランキング下がるのを覚悟の上で書いてます(!?)
これまでの経緯をお話しますと、
そもそもは、ロスのセリフ、
ロス: And I've seen her be a little too into her looks.
が継続か経験か、という話でした。
いろいろ悩んでこれは「経験」で、私なりに日本語訳をつけるとすると、
「レイチェルが自分のルックスをちょっと気にしすぎる、ってところを見たことがあるよ。」
「レイチェルには自分のルックスをちょっと気にしすぎるところがあるよ[あったよ]。」
みたいになるかなぁ、と結論づけました。
さらに、完了形、ふたたび の記事で、私は「see という単語は”ものが見える、視覚に映る”という意味だから、”ずっと続く継続”の概念とは共存できない単語に思える。」と書いたのですが・・・。
その「see が継続の概念と相容れない」という意見に対して、非公開コメントでハルさんより興味深いご意見をいただきました。
何度かこの件についてやり取りした「二人の初めての共同作業」の結果(!?)は以下のようになります。
(実際は、ハルさんが全部調べて下さいました。それから、あまりおフザケが過ぎると、ハルさんの奥様とお嬢様に申し訳ないので、この辺でやめときます・・・笑)。
その1
see には「視覚に映る」以外にも「みなす」「付き合う」などの意味がある。
Google のフレーズ検索で、"I've seen him for" や "I've seen him since" と期間を表す表現をつけて検索すると、相当数ヒットするし、それは内容から継続として使われていることもわかったので、see は「継続の概念と相容れない動詞」だとは言えない。
その2
また、「視覚に映る」意味での継続があり得るかどうかは現時点ではわからない。
その3
I have seen her be selfish.
I have seen her as a selfish girl.
という二つの文をネイティブの先生に見せてみた結果は、(ハルさんのプライベート・レッスンの先生は、ネイティブなんですよね!)
この二つの文は同じ意味で、どちらも「experience(経験)」を意味するとのこと。
「I have seen her ... for years」とした場合は「duration(継続)」を意味するようだが、このような「for」や「since」がない場合、「have seen」は「経験」というのが、彼らの直感的な印象のようだ。
ということでした。
まず、その1について。
実は、前の記事の時に、私はフレーズ検索で用例を調べることをしませんでした。
ちょっと文法に偏りすぎて、文法書や解説書ばかりひっくり返して、実際に使われている用例に当たってみることを私は忘れておりました。
実際、フレーズ検索で継続として使われているものが出ているのなら、see という単語が継続として使用可能なのは間違いないでしょう。
もちろん、ネット上にある英文全てが正しいとは言えないのですが、「相当数」ヒットするということであれば、通常使用されている形だと思って良いと思います。
ということで、過去の記事に書いた「see は継続とは相容れない動詞だ」という私の意見を、ここで謹んで撤回いたします。
紛らわしいことを書いて、本当に申し訳ありませんでした。
(前回の記事では私は「see = 視覚に映る」という観点からしか見ていなかったのが、そもそも問題なんですね。)
その2については、後で書きます。
その3については、これは私も後から気が付いたんですが、最初の私に欠けていたのは、
「まず、先入観を捨てて、セリフを眺める。」
という姿勢でした。
ロス: I've seen her be a little too into her looks.
先入観なくこの文章を見たときに、I have seen という形を見て、現在完了形の
Have you ever seen...?(・・・を見たことありますか?) や、
I have never seen... (・・・を今まで見たことがない)
という「経験」の典型的な例を思い出して、経験だと捉えるのが一番素直なのかも、と今になって思います。
また言い訳みたいになりますが、最初の解釈で、どうして、「ずっと」という継続のニュアンスを私が感じてしまったかというと、ロスがレイチェルのことを語る時に必ずセットのように出てくる話が、ロスがレイチェルに「ずっと片思い」していた、ということ。
例えば、フレンズ1-24その6 のセリフ、
ロス: I've been in love with you since the ninth grade. (高校の時から君のことがずっと好きだった。)
などは典型的な例ですよね。
でも、よく考えてみると、「ずっと」のニュアンスを出したければ、上のように since the ninth grade とか、for a long time とか、そういう副詞句がつくのが自然です。
また、「何回も見たよ」と言うつもりだったら、often 「何回も」などの頻度を表す表現を入れるかもしれません。
言葉のイメージを強めるために、ネイティブはそういう副詞句を頻繁に使うような気がします。
例えば、何回もあったことを言うときに、"again and again and again" などしつこいくらい強調したりしますが、あれで感情を込めている、という部分もありますよね。
そう考えてからこのセリフを見ると、「長い期間」を示唆したフレーズがない、そして「頻度が多い」という表現もない、だから、「何回も」というほどでもなく「かつてそんなところを見た」という程度の、ある過去におけるエピソード的ニュアンスだと捉えるのが自然な気がしてきました。
結局、「期間」や「頻度」のどちらかを表す表現がないのだから、そこからどちらと決めるのも危険ですが、どちらがないと不自然かというと、”「ずっと」というニュアンスで期間を表す表現がない方が不自然”だと思えます。
ということで、先入観なく見た場合、このセリフは見かけ上は、「経験」と見なしやすい、と思います。
ハルさんのネイティブの先生の捉え方も、「for」や「since」がない場合は「経験」だと直感的に感じる、というのもまさにそのことですよね。
そして、今はその2のことで悩んでいます。
ハルさんに倣って、私もいろいろと Google 検索してみると、いくつか気になる表現が出てきました。(ただし、以下の文章は大量にヒットしたのではないので、間違った表現の可能性もある)
まず、I've seen him for years. という文章がヒットしました。
ハルさんが辞書で発見されたという They've seen each other for a long time. (二人は長く付き合っている。)と同じで、「彼と長年お付き合いしてきた」とも取れますが、もしかしたら「長年彼を見てきた」という「見る」意味だという可能性はないんでしょうか?
何故、素直に「付き合う」だと納得できないかというと、「付き合う」という意味で使う場合は、I'm seeing him. と現在進行形で使う場合が多いので、進行形ではない場合、「付き合う」ではない可能性もあるのでは?と思うのです。
また、以下のような文も発見しました。(発見した文章をちょっと変えてますが)
"I've seen him for the last five years. But I've never seen him like this."
これは「私はこの5年間ずっと彼を見てきたけど、こんな様子の彼は見たことがない。」という、日本語でもよくわかるニュアンスの文章になりそう。
もしそういう意味だと、まさに「継続」と「経験」を、どちらも have seen で表現していることになりますよね。
これもまた、 see は「付き合う」という行為を指しているから「継続」可能なんだ、とも言えるかもしれませんが。
もし、上の文章での see が「視覚に映る」という意味で、なおかつネイティブにとって自然な文章だとすると、「視覚に映る」という意味でも、継続は可能なのかもしれません。
もしかしたら、「じぃーっと観察してる」んではなく、「ずっと姿が見えていた、目に映っていた」あるいは「見守っていた」という感覚は継続と相容れるものなのかもしれません。
see 「視覚に映る、見る」の意味でも継続が可能かもしれない!?
のでしょうか?
もうこの辺りになってくると、正直、私にはお手上げです。
結局は、「継続」か「経験」か、という分類の話ではなく、「文法的にそれが可能か不可能か」という話でもなく、継続の形や経験の形にしてネイティブが自然に感じるか、が大事なポイントなわけですね。
ここでは「ハートで感じる英文法」方式で(笑)、ポール・マクベイ先生にフリップ(・・・って言うんでしたっけ? あのボード)を持っていただいて、街行くネイティブに聞いていただきたいところです。
フリップその1
I've seen him be selfish for ten years.
で違和感がないか?
なぜ、この構文を使ったかというと、これが「視覚に映る」という意味で一番使われる形だと思ったからです。
「see(hear)+目的語+動詞の原形(または現在分詞)」は、知覚動詞を用いているため、「知覚構文」と呼ばれますよね。
ちょうど、1月19日放送の「ハートで感じる英文法」のメインテーマだったので、タイムリーな話題でもあります。
この知覚構文で、継続の意味を持たせることができれば、「視覚に映る」でも継続は可能、ということになりますよね。
フリップその2
I've seen him for the last five years. But I've never seen him like this.
で違和感がないか? 最初の継続に使われている see は 「notice/examine, using your eyes」の意味の「視覚に映る」か、もしくは「付き合う」という意味に理解されてしまうのか?
などなど・・・。
実際のネイティブの感覚を聞いてみたいところですね?(ハルさんの先生は今お忙しいらしくて・・・一応、聞いていただくようにお願いしてあります・・・笑)
明日は、この「知覚動詞 see が完了形継続として使えるか?」に何故私がここまでこだわったのか、について語ってみたいと思います。
(ここまでこのネタを引っ張った言い訳みたいなものですが・・・笑)
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2006年01月11日
みたび、完了形-完結編
昨日の続きです。
最初にお断りしておきますが、今日の記事は、今現在、私が正しいと思っていることを書いただけです。
また、コメントをいただいて考えが変わることもあるでしょうし、今後、英語学習を進めていくうちに気付くこともあるでしょう。
ですから、あくまで一英語学習者の意見として聞いて下さい。
また、お気づきの点などありましたら、ご指摘下さいませ。
今日の記事で、ひとまず完了形は終わりにしたいと思いますので、これ以降の議論は、コメント欄で進めていきたいと思います。
興味のある方はコメント欄もチェックして下さいね。
昨日は、現在完了形の「継続」について書きました。
今日は、現在完了形の「経験」について説明します。
この「経験」は、実は、過去の一種です。
普通の過去形の表現と同じように明らかに過去に起こったことでも、その起こった「時期」を「特定したくない場合、する必要がない」場合に、現在完了形を使うのです。
この「特定しない過去」のことを、F.D.J.さんは「不特定の過去」と表現されています。(「いついつだと特定しない、とある時点の過去」ということですね。)
F.D.J.さんの現在完了形の記事 から以下の文章を引用させていただきます。
ネイティブ・イングリッシュ・スピーカー達は「過去形」と「現在完了形」の使い分けに際しいちいち文全体を考えているわけではありません。「いつのことか」、またそれが重要なことなのか、そして現在への影響はどうであるのか、という事から使い分けを無意識におこなっているわけです。
つまり、F.D.J.さんは、”「いつのことか」が重要かどうかにポイントがある”ことにちゃんと気付かれている、というか、ご存知なんですねぇ。
・・・と私が感心しているのは、実は私がこの考え方を知ったのは、結構最近の話なんですよ(笑)。(単に勉強不足だったという話も・・・)
デビッド・バーカーさんが書かれた「会話に生かせる英文法」という週刊STのコラム(2005年5月13日の記事)で、このことについて書かれていたのを読んで、「えっ?そうなの?」と驚いた記憶があります。
「明確に過去を表す語句は、現在完了形の文では使えない」というのは、文法書で必ず出てくる話です。
そしてその逆を考えると、「明確に過去を表す語句を使いたくない場合は、現在完了形を使う」ということになるわけですね。
日本人の認識では、とりあえず過去に起こったことは過去形で表せば良いと思うのですが、ただ、I went to Tokyo. と言っただけでは、逆にとても不自然で中途半端だとネイティブは感じるようです。
「それって、いつよ?」といつのことか聞き返したくなる感じです。
本人の体験談として過去形が出てくると、それは、話者がこれまで生きてきた期間すべて(生まれ落ちてから現在まで)の期間のどこかの時点での話ということになります。
あまりに幅が広すぎて、特定しないと、昨日の話か、一ヶ月前の話か、子供の頃の話かわかりませんから、過去形を使う場合には、時期を明確にする語句を使うのですね。
そして、「いつであるかが問題ではない」、「過去にそういうことがあった、という事実だけを述べて、時期については述べたくない、述べる必要もない」場合には、現在完了形を使えば良いのです。
そうすると、「これまでの人生の間で」そういう「経験」をした、という経験を述べる現在完了形になるのですね。
現在完了形というのは、過去から現在にかけての時間の経過と共にある時制ですが、この「経験」では、その過去から現在にかけての期間の中で、「どこかの”とある”1点」における話ができるわけです。
具体的にいつの話だと述べなくても、聞いた人は、「この人の人生のとある時点での話だな。」とわかるわけですね。
ここで日本語と比較するのは危険かもしれませんが、日本語で経験を述べる場合にも、「・・・した、ことがある。」と言いますよね。
「した」のは「した」んだけど、「した」というと「いつしたの?」と聞き返される恐れがあるので、「した」という事実があるんだ、と言っているわけです。
いつしたのかは問題ない、したという経験だけを語りたいわけですね。
このように、過去の話は過去形でしてればいいや、というのもとりあえずはオッケーですが、ネイティブは「時期を特定しないで済むから便利」ということで、現在完了形を使っているらしいです。
日本人にとって、現在完了形は特殊な形に思えますが、ネイティブは「過去形より使いやすい」と思って使っている、というのは、私にとっては、逆転の発想に近いものがありました。
ここで「経験」について説明したところで、では「継続かつ経験」という解釈が可能かどうか考えてみます。
例えば、あり得る話として、ロスは高校生の頃からレイチェルが好きだったので、好きになってから現在までの間に、ある時は30分間彼女をずっと見ていた、とか、またある時は2時間見ていた、とか(ストーカーみたいだけど・・・笑)、そういう「継続した行為」があったとしますよね。
私が一度、「経験プラス継続もあり得るかも」と思ったのは、現在完了形が過去から現在にかけての時間の経過を示す時制で、その間に起こった、時間の幅のある行為を表すことも可能なのではないかと思ったからです。
または、現在完了形でそういうニュアンスを含めることが出来るのかも、とか・・・。
でもその過去の一定期間の行為は、「過去形」で表します。
昨日の記事に書いたように、過去の一定期間続いた行為は、I lived in Japan for 5 years. と過去形で表現するのです。
現在完了形で「継続」のニュアンスを出そうとする場合には、あくまでも「現在までの」継続になるわけですね。
ですから、現在完了形の継続の形で、「不特定の過去」の前後にまたがる継続した期間を表現することは出来ないのです。
結局、「不特定の過去」である経験は、「現在の状態を含む」継続とは、同時に起こらない概念なのです。
だから、私がちょっと考えた「継続かつ経験」という解釈は成り立たない、ということになります。
まったく同じ文章が、状況によって、ある時は継続、またある時は経験とみなされる、ということはあります。
が、継続と経験が共存することはないのです。
(と断言してますが、実はあんまり自信がない・・・笑)
以上が、”今のところの”私の結論でした。
ご意見、反論、お待ちしております。
文法用語満載の、目のチラチラする記事で申し訳ありませんでした。
(うーん、時代に逆行してる感じだ・・・笑)
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最初にお断りしておきますが、今日の記事は、今現在、私が正しいと思っていることを書いただけです。
また、コメントをいただいて考えが変わることもあるでしょうし、今後、英語学習を進めていくうちに気付くこともあるでしょう。
ですから、あくまで一英語学習者の意見として聞いて下さい。
また、お気づきの点などありましたら、ご指摘下さいませ。
今日の記事で、ひとまず完了形は終わりにしたいと思いますので、これ以降の議論は、コメント欄で進めていきたいと思います。
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昨日は、現在完了形の「継続」について書きました。
今日は、現在完了形の「経験」について説明します。
この「経験」は、実は、過去の一種です。
普通の過去形の表現と同じように明らかに過去に起こったことでも、その起こった「時期」を「特定したくない場合、する必要がない」場合に、現在完了形を使うのです。
この「特定しない過去」のことを、F.D.J.さんは「不特定の過去」と表現されています。(「いついつだと特定しない、とある時点の過去」ということですね。)
F.D.J.さんの現在完了形の記事 から以下の文章を引用させていただきます。
ネイティブ・イングリッシュ・スピーカー達は「過去形」と「現在完了形」の使い分けに際しいちいち文全体を考えているわけではありません。「いつのことか」、またそれが重要なことなのか、そして現在への影響はどうであるのか、という事から使い分けを無意識におこなっているわけです。
つまり、F.D.J.さんは、”「いつのことか」が重要かどうかにポイントがある”ことにちゃんと気付かれている、というか、ご存知なんですねぇ。
・・・と私が感心しているのは、実は私がこの考え方を知ったのは、結構最近の話なんですよ(笑)。(単に勉強不足だったという話も・・・)
デビッド・バーカーさんが書かれた「会話に生かせる英文法」という週刊STのコラム(2005年5月13日の記事)で、このことについて書かれていたのを読んで、「えっ?そうなの?」と驚いた記憶があります。
「明確に過去を表す語句は、現在完了形の文では使えない」というのは、文法書で必ず出てくる話です。
そしてその逆を考えると、「明確に過去を表す語句を使いたくない場合は、現在完了形を使う」ということになるわけですね。
日本人の認識では、とりあえず過去に起こったことは過去形で表せば良いと思うのですが、ただ、I went to Tokyo. と言っただけでは、逆にとても不自然で中途半端だとネイティブは感じるようです。
「それって、いつよ?」といつのことか聞き返したくなる感じです。
本人の体験談として過去形が出てくると、それは、話者がこれまで生きてきた期間すべて(生まれ落ちてから現在まで)の期間のどこかの時点での話ということになります。
あまりに幅が広すぎて、特定しないと、昨日の話か、一ヶ月前の話か、子供の頃の話かわかりませんから、過去形を使う場合には、時期を明確にする語句を使うのですね。
そして、「いつであるかが問題ではない」、「過去にそういうことがあった、という事実だけを述べて、時期については述べたくない、述べる必要もない」場合には、現在完了形を使えば良いのです。
そうすると、「これまでの人生の間で」そういう「経験」をした、という経験を述べる現在完了形になるのですね。
現在完了形というのは、過去から現在にかけての時間の経過と共にある時制ですが、この「経験」では、その過去から現在にかけての期間の中で、「どこかの”とある”1点」における話ができるわけです。
具体的にいつの話だと述べなくても、聞いた人は、「この人の人生のとある時点での話だな。」とわかるわけですね。
ここで日本語と比較するのは危険かもしれませんが、日本語で経験を述べる場合にも、「・・・した、ことがある。」と言いますよね。
「した」のは「した」んだけど、「した」というと「いつしたの?」と聞き返される恐れがあるので、「した」という事実があるんだ、と言っているわけです。
いつしたのかは問題ない、したという経験だけを語りたいわけですね。
このように、過去の話は過去形でしてればいいや、というのもとりあえずはオッケーですが、ネイティブは「時期を特定しないで済むから便利」ということで、現在完了形を使っているらしいです。
日本人にとって、現在完了形は特殊な形に思えますが、ネイティブは「過去形より使いやすい」と思って使っている、というのは、私にとっては、逆転の発想に近いものがありました。
ここで「経験」について説明したところで、では「継続かつ経験」という解釈が可能かどうか考えてみます。
例えば、あり得る話として、ロスは高校生の頃からレイチェルが好きだったので、好きになってから現在までの間に、ある時は30分間彼女をずっと見ていた、とか、またある時は2時間見ていた、とか(ストーカーみたいだけど・・・笑)、そういう「継続した行為」があったとしますよね。
私が一度、「経験プラス継続もあり得るかも」と思ったのは、現在完了形が過去から現在にかけての時間の経過を示す時制で、その間に起こった、時間の幅のある行為を表すことも可能なのではないかと思ったからです。
または、現在完了形でそういうニュアンスを含めることが出来るのかも、とか・・・。
でもその過去の一定期間の行為は、「過去形」で表します。
昨日の記事に書いたように、過去の一定期間続いた行為は、I lived in Japan for 5 years. と過去形で表現するのです。
現在完了形で「継続」のニュアンスを出そうとする場合には、あくまでも「現在までの」継続になるわけですね。
ですから、現在完了形の継続の形で、「不特定の過去」の前後にまたがる継続した期間を表現することは出来ないのです。
結局、「不特定の過去」である経験は、「現在の状態を含む」継続とは、同時に起こらない概念なのです。
だから、私がちょっと考えた「継続かつ経験」という解釈は成り立たない、ということになります。
まったく同じ文章が、状況によって、ある時は継続、またある時は経験とみなされる、ということはあります。
が、継続と経験が共存することはないのです。
(と断言してますが、実はあんまり自信がない・・・笑)
以上が、”今のところの”私の結論でした。
ご意見、反論、お待ちしております。
文法用語満載の、目のチラチラする記事で申し訳ありませんでした。
(うーん、時代に逆行してる感じだ・・・笑)
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2006年01月10日
完了形、ふたたび
フレンズ2-8その8+完了形、継続か経験か の記事で、次のセリフ
ロス: And I've seen her be a little too into her looks.
における現在完了形について、じっくり考察してみました。
その記事ではいったん、「経験」だということで結論づけたのですが、その後、コメントをいただいて、私の意見も二転三転しました。
「継続かつ経験」かもしれないとか、「経験で、ちょっと継続のニュアンスが入ってる感じ?」とか、いろいろ考え直している間に、私の完了形の認識がまだあやふやだったことに気付きました。
そこで、ふたたび(!)、現在完了形について考えてみたいと思います。
またもやくどくどと説明が続き、「ハートで感じる英文法」に対抗した「理詰めで押し切る英文法」って感じになってます。(これで論理が破綻してたらどうしよう・・・笑)
「フレンズ解説にしか興味ないよー!」という方には、度々のことで本当に申し訳ありません。
が、今後、よりネイティブの感覚に近づいた解説をするためには、避けては通れない道なのですっ!(←大袈裟)
ということで、興味のない方は、フレンズ解説まで、もうしばらくお待ち下さいませ(笑)。
なお、前回の完了形の記事では「フレンズ2-8その8」とタイトルに”フレンズ”とつけていたのですが、結局、セリフの解説というよりは、文法解説になってしまったので、これ以上「その○○」が増えても困るので(笑)、今回は潔く文法がらみのタイトルにしました。(問題となったセリフからはリンクをはってこちらに来れるようにしておきます。)
まず、最初に皆様に謝りたいのは、私がある意見を聞くたびに、自分の考えがあっちへフラフラ、こっちへフラフラしてしまうことです。
やはり自分がわからなくて、間違った箇所なので、人の意見を聞くと「なるほどぉ!」と思ってしまうんですね。
それから、日本語でも日本国憲法をいろんな風に解釈できるように(笑)、英語も「聞く人によっては、違った解釈になる」というのもアリなのかもしれない、と思いたい気持ちがどこかにあるんだと思います。(そう思うと楽だから・・・笑)
ただ、「そういう解釈はあり得ない」という部分だけははっきり認識しておかないと、英語を誤解することになってしまいますよね。
で、あれから、私も現在完了形について、手元の本などをもう一度じっくり調べ直しました。
(もちろん、F.D.J.さんの現在完了形の記事 も読みましたよ!)
私の認識が甘かったのは「継続」の概念でした。
(「分類にはじまり分類に終わる学習は無意味」との指摘を受けたばかりなのですが、ここでは「継続」「経験」と分類することによる弊害には、ちょっと目をつぶって下さい・・・笑)
日本語で「継続」というと、「ずっと続いていること」という意味ですが、「現在完了形」における「継続」の期間にははっきりした決まりがあるんでしたね。
(以下の文章は、自分の考えを整理して、間違ってるところがあれば指摘していただくために書いてます・・・笑)
同じように「5年間日本に住んでいた」という文章でも、
(1)現在完了形
I have lived in Japan for 5 years.
「過去のある時点から、現在まで5年間」住んでいる。(今でも住んでいる。)
(2)過去形
I lived in Japan for 5 years.
「過去において5年間」住んでいた。(が、今はもう住んでいない。)
(3)過去完了形
I had lived in Japan for 5 years until I got married.
「結婚した過去の時点まで、5年間」住んでいた。(過去の時点での話なので、今との関連性はないから、今の状態はわからない???)
↑ここで「過去完了形」を持ち出すと、話がややこしくなるのは承知しているのですが、日本語で「継続」というと、こういうことも思い浮かべる、という意味で並べてみました。
上に挙げたような、完了形や、完了形と間違いやすい表現に関しては、週刊ST のコラム「これであなたも英文記者」の課題で何度もやっていたし、伊藤サムさんの新刊 伊藤サムのこれであなたも英文記者 にもくわしく書かれていたので、ちゃんとわかっていたつもりだったのですが・・・。
私が混乱していたのは、「継続」という日本語から、とにかく「ある期間ずっと続いていたこと」を全部「継続」だと思ってしまっていた、ということです。
現在完了形の継続はあくまで「現在まで」の継続。「現在完了形」と”現在”がついているのは、ダテじゃない!ってことですね。
だから、ロスのセリフで言うと、
I've seen her be a little too into her looks.
をもし「継続」だと解釈すると、
過去のある時点から「現在」まで、ルックスを気にするレイチェルを、文字通り「ずっと見ていた。」
ということになるのですが・・・。
やはり「現在までずっと彼女を見ていた」という解釈には無理があると思います。
そもそも、最初に私が勘違いしたのは、「ずっと彼女を見ていた」という日本語が、恋する男性のセリフとして成立するから。(これが、いわゆる「日本語に訳すことの弊害」ってヤツですね・・・)
でも、現在完了形で「ずっと見ていた」というのは、本当に物理的に「ずっと見ていた」ことを指すわけで、この日本語のニュアンスとは異なるはず。
また、動詞に注目すると、see という単語は「ものが見える、視覚に映る」という意味。
英英辞典では、see = to notice or examine someone or something, using your eyes とあります。
つまり、「目に映ったものの存在に気付いて、その対象を理解しようとすること」という感じでしょうか。
(英英辞典で調べたものを、いちいち日本語に直したら意味がないじゃないか!、というご指摘は、甘んじて受けます・・・笑)
ですから、「ずっと続く継続」の概念とは共存できない単語に思えてきました。
これが watch だと「動いているものを注意して見る」という意味なので、継続の意味も可能かと思いますが。
(2006.1.30 追記)
上に「動詞 see は継続の概念とは共存できない」と書いたのですが、それが誤りである、つまり「see は継続の概念と共存可能」と言えることがわかりました。
それに関して、以下の記事で解説しておりますので、興味のある方は覗いてみて下さい。
知覚動詞seeの完了形(その1)
知覚動詞seeの完了形(その2)
(追記はここまで)
ということで、「継続」という解釈は不可能で、かつてそういうことがあった、という「経験」の意味として解釈すべきだ、ということになります。
明日は「経験」について説明し、その「継続」と「経験」との決定的な違いから、二つが共存することは出来ない、という話をするつもりです。
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ロス: And I've seen her be a little too into her looks.
における現在完了形について、じっくり考察してみました。
その記事ではいったん、「経験」だということで結論づけたのですが、その後、コメントをいただいて、私の意見も二転三転しました。
「継続かつ経験」かもしれないとか、「経験で、ちょっと継続のニュアンスが入ってる感じ?」とか、いろいろ考え直している間に、私の完了形の認識がまだあやふやだったことに気付きました。
そこで、ふたたび(!)、現在完了形について考えてみたいと思います。
またもやくどくどと説明が続き、「ハートで感じる英文法」に対抗した「理詰めで押し切る英文法」って感じになってます。(これで論理が破綻してたらどうしよう・・・笑)
「フレンズ解説にしか興味ないよー!」という方には、度々のことで本当に申し訳ありません。
が、今後、よりネイティブの感覚に近づいた解説をするためには、避けては通れない道なのですっ!(←大袈裟)
ということで、興味のない方は、フレンズ解説まで、もうしばらくお待ち下さいませ(笑)。
なお、前回の完了形の記事では「フレンズ2-8その8」とタイトルに”フレンズ”とつけていたのですが、結局、セリフの解説というよりは、文法解説になってしまったので、これ以上「その○○」が増えても困るので(笑)、今回は潔く文法がらみのタイトルにしました。(問題となったセリフからはリンクをはってこちらに来れるようにしておきます。)
まず、最初に皆様に謝りたいのは、私がある意見を聞くたびに、自分の考えがあっちへフラフラ、こっちへフラフラしてしまうことです。
やはり自分がわからなくて、間違った箇所なので、人の意見を聞くと「なるほどぉ!」と思ってしまうんですね。
それから、日本語でも日本国憲法をいろんな風に解釈できるように(笑)、英語も「聞く人によっては、違った解釈になる」というのもアリなのかもしれない、と思いたい気持ちがどこかにあるんだと思います。(そう思うと楽だから・・・笑)
ただ、「そういう解釈はあり得ない」という部分だけははっきり認識しておかないと、英語を誤解することになってしまいますよね。
で、あれから、私も現在完了形について、手元の本などをもう一度じっくり調べ直しました。
(もちろん、F.D.J.さんの現在完了形の記事 も読みましたよ!)
私の認識が甘かったのは「継続」の概念でした。
(「分類にはじまり分類に終わる学習は無意味」との指摘を受けたばかりなのですが、ここでは「継続」「経験」と分類することによる弊害には、ちょっと目をつぶって下さい・・・笑)
日本語で「継続」というと、「ずっと続いていること」という意味ですが、「現在完了形」における「継続」の期間にははっきりした決まりがあるんでしたね。
(以下の文章は、自分の考えを整理して、間違ってるところがあれば指摘していただくために書いてます・・・笑)
同じように「5年間日本に住んでいた」という文章でも、
(1)現在完了形
I have lived in Japan for 5 years.
「過去のある時点から、現在まで5年間」住んでいる。(今でも住んでいる。)
(2)過去形
I lived in Japan for 5 years.
「過去において5年間」住んでいた。(が、今はもう住んでいない。)
(3)過去完了形
I had lived in Japan for 5 years until I got married.
「結婚した過去の時点まで、5年間」住んでいた。(過去の時点での話なので、今との関連性はないから、今の状態はわからない???)
↑ここで「過去完了形」を持ち出すと、話がややこしくなるのは承知しているのですが、日本語で「継続」というと、こういうことも思い浮かべる、という意味で並べてみました。
上に挙げたような、完了形や、完了形と間違いやすい表現に関しては、週刊ST のコラム「これであなたも英文記者」の課題で何度もやっていたし、伊藤サムさんの新刊 伊藤サムのこれであなたも英文記者 にもくわしく書かれていたので、ちゃんとわかっていたつもりだったのですが・・・。
私が混乱していたのは、「継続」という日本語から、とにかく「ある期間ずっと続いていたこと」を全部「継続」だと思ってしまっていた、ということです。
現在完了形の継続はあくまで「現在まで」の継続。「現在完了形」と”現在”がついているのは、ダテじゃない!ってことですね。
だから、ロスのセリフで言うと、
I've seen her be a little too into her looks.
をもし「継続」だと解釈すると、
過去のある時点から「現在」まで、ルックスを気にするレイチェルを、文字通り「ずっと見ていた。」
ということになるのですが・・・。
やはり「現在までずっと彼女を見ていた」という解釈には無理があると思います。
そもそも、最初に私が勘違いしたのは、「ずっと彼女を見ていた」という日本語が、恋する男性のセリフとして成立するから。(これが、いわゆる「日本語に訳すことの弊害」ってヤツですね・・・)
でも、現在完了形で「ずっと見ていた」というのは、本当に物理的に「ずっと見ていた」ことを指すわけで、この日本語のニュアンスとは異なるはず。
また、動詞に注目すると、see という単語は「ものが見える、視覚に映る」という意味。
英英辞典では、see = to notice or examine someone or something, using your eyes とあります。
つまり、「目に映ったものの存在に気付いて、その対象を理解しようとすること」という感じでしょうか。
(英英辞典で調べたものを、いちいち日本語に直したら意味がないじゃないか!、というご指摘は、甘んじて受けます・・・笑)
ですから、「ずっと続く継続」の概念とは共存できない単語に思えてきました。
これが watch だと「動いているものを注意して見る」という意味なので、継続の意味も可能かと思いますが。
(2006.1.30 追記)
上に「動詞 see は継続の概念とは共存できない」と書いたのですが、それが誤りである、つまり「see は継続の概念と共存可能」と言えることがわかりました。
それに関して、以下の記事で解説しておりますので、興味のある方は覗いてみて下さい。
知覚動詞seeの完了形(その1)
知覚動詞seeの完了形(その2)
(追記はここまで)
ということで、「継続」という解釈は不可能で、かつてそういうことがあった、という「経験」の意味として解釈すべきだ、ということになります。
明日は「経験」について説明し、その「継続」と「経験」との決定的な違いから、二つが共存することは出来ない、という話をするつもりです。
(Rachからのお願い)
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